戦争責任㉚ 真珠湾攻撃 [戦争責任]
○1941年ころの日本の世情
① 1940年11月10日、紀元二千六百年を祝う提灯行列、旗行列が全国であった。
➁1940年12月1日、大政翼賛会本部を設置した。
永井荷風は日記に「今の日本は石が浮かんで木の葉がしずむ」といった。世情は荒々しくなっていくばかりであった。
○1941年ころの日本の政治状況
①1940年7月22日、第二次近衛文麿内閣が成立、松岡洋右が外務大臣に就任した。
➁1941年7月28日、第三次近衛内閣成立、松岡外相を閣外に追い出すための内閣改造であった。近衛はルーズベルト大統領と頂上会談を期待したが果たせず、日米交渉に進展はなかった。
③1941年9月6日、御前会議で帝国国策遂行要領が議題となり、10月上旬までに日米交渉がまとまらなければ、戦争決意することを確認した。
④10月9日、伏見宮博恭王が天皇に謁見し、「米国とは一戦を避けがたく戦うとすれば早いほど有利、人民みな開戦を希望している。開戦しなければ陸軍に反乱がおこる。」と述べた。
⑤10月16日、近衛内閣は総辞職した。戦争決意の期限が来ても日米交渉は進展せず、和を主張すべきところ責任を放棄した。後任に陸軍大臣東条英機が就任した。
○陸軍・海軍の軍事状況
①陸軍はシンガポール攻略、海軍は東南アジアの資源地帯を占領し、対米長期戦に備えると主張、 これと異なる考え方を持った山本五十六連合艦隊司令長官はハワイの米主力艦隊への先制攻撃を主張してみつどもえとなったが、周囲の反対を押し切って真珠湾攻撃が、長野修身軍令部総長の決済で正式作戦となった。
➁当時、陸軍兵力212万、海軍兵力395隻(米太平洋艦隊と互角)、陸海軍航空機5700機
③ 11月15日、大本営政府連絡会議は戦争終結目途を、・石油資源確保、・重慶の蒋介石屈服、・独ソ戦がドイツ勝利、・ドイツのイギリス本土上陸の四条件と決めた。すなわち日本は、ドイツの勝利を当てにして勝利の夢を見ていた。
○独ソの戦況
10月14日、カリーニンがドイツ戦車隊に突破されたが、10月16日モスクワに数インチの降雪があり、冬将軍が到来した。12月5日、米から軍需物資の援助を得てソ連軍が大反撃を開始し、ドイツ軍は敗色濃厚となった。
ドイツ軍の撤退が、真珠湾攻撃の日と近いのは歴史の皮肉である。日本が早く知っていれば違った世界が見られたであろう。
●真珠湾攻撃
1941年12月8日、ハワイの真珠湾にある海軍基地を、日本海軍の空母6隻を主力とする機動部隊が攻撃した。日本時間12月8日、午前1時30分、第一波攻撃隊として183機、午前2時45分に第二波攻撃隊として171機が発進した。約2時間後攻撃が開始され成功したが、味方の損害を最小限に防ぐために一撃のみで引き返すことにした。
日本側は空母6隻すべて健在であった。一方アメリカ側は戦艦4隻沈没、戦死2.345名であった。
〇宣戦布告の遅延
外交官の不手際輪があって、宣戦布告が遅れてしまった。アメリカは布告をわかっていたが、布告前の攻撃と嫌みだけ言った。アメリカの世論は布告前攻撃に対し、「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、一夜に好戦的になってしまった。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 真珠湾攻撃 |
100 |
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50 |
50 |
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▲筆者のコメント
①アジアを南進して西を攻める案があったが、山本五十六が真珠湾攻撃に非常にこだわり、すべてをだめにしてしまった。まさに最悪の将軍である。
➁ルーズベルト大統領は、日本の攻撃を事前に知っていて、空母を退避させ戦艦何隻かを囮にしたという説がある。米国民の厭戦気分を克服して一気に戦争に突入したかったようだ。
セグロセキレイ 撮影:鳥好閑人さん
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