戦争責任① 責任評価点 [戦争責任]
日本は1945年に、太平洋戦争に負けてポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。連合国に占領され、東京裁判で裁かれ、A級戦犯7人が処刑された。東京裁判は、戦勝国の一方的な裁判で、被告・日本の訴えはすべて無視された。
ところが、戦後75年が経過したが、いまだに、国内で「戦争責任」につて、だれに、どのような責任があったかを糺すことをしなかった。
後世の国民が、再び同じ過ちを繰り返さないためにも、国民の名において、戦争と敗戦の責任を明確にしなければいけないと思う。
当ブログでは、1853年のペリー来航から、1945年の敗戦までの事件を取り上げる。そして、下記コラム記載の定義に基づいて、日本と相手国の事件ごとの責任評価点を下表のように算出してみよう。
表は凡例であって、数値は仮の数字である。
出来事・事件 |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
||
○○○○ |
60 |
40 |
10 |
6 |
|
|
3 |
1 |
|
|
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戦争責任シリーズの最後に、下記「総括表」にまとめ、日本敗戦にかかわる国々の責任を明らかにしようと思う。表の数値は凡例であって、仮の数字である。黄色の数字の和は100になる。
総括表 |
|
日本 |
中国 |
朝鮮 |
米国 |
露国 |
英国 |
ドイツ |
その他 |
太平洋戦争を敗戦に導いた責任 |
評価点計 |
800 |
300 |
200 |
400 |
100 |
40 |
60 |
100 |
100分比 |
40 |
15 |
10 |
20 |
5 |
2 |
3 |
5 |
コラム 戦争責任の定義
1.連合国に対するへの戦争責任
相手国への戦争責任は、国際的規定に則って、講和条約、裁判、断罪、補償、賠償、謝罪などの段階を踏んで問われる。
しかし、東京裁判は、戦争の国際的規定(ハーグ陸戦規定)になかった「平和に対する罪」などで裁いた、いわば復讐劇のような裁判であった。
2.日本の自国民に対する戦争責任
①戦争責任を問う時期により、開戦時責任、戦時中責任、終戦時責任が問われる。
②戦争責任の内容として、犯罪(故意)、過誤(ミス)、不作為(怠慢)のほかに、刑事的、道徳的、政治的、外交的な責任が問われる。
③戦争責任の対象者は、戦争指導者、政治家、学者、マスコミである。一般庶民も、乗せられて煽った分、責任なしとは言えない。
④天皇陛下の戦争責任:当時の帝国憲法では、天皇は立憲君主で軍隊の統帥権を持っていた。しかし、天皇がご裁断を下したのは、2.26事件の首謀者への厳罰命令と、終戦時のポツダム宣言受諾の二件しかなかったという。
昭和天皇は、マッカーサーとの初会見で、「責任はすべて自分にある」と発言したが、東京裁判でキーナン検事が「天皇に戦争責任なし」と宣言し、今日まで受け入れられてきた。
戦争責任②不平等条約 [戦争責任]
〇1853年、ペリー浦賀に来航
司馬遼太郎の言:日米間の尽きざるゲームは、1853年のペリーショックから始まった。ペリーは捕鯨寄港地を求めて砲艦外交を仕掛けてきた。
〇江戸庶民の川柳:「太平の眠気を覚ます蒸気船たった四杯で夜も寝られず」
●1858年、日米修好通商条約を締結し開国(後で、日本は不平等解消に苦しんだ)
①港の開港(横浜、新潟、神戸、長崎港)
②領事裁判権・治外法権の承認。外国人の横暴が黙認され攘夷思想が激化した。
③関税自主権の欠如(日本に税率決定権なし)。輸出による国内の品不足で物価高騰、輸入による金流出。
➃当時、ロシアの開国要求もあり、結局、露英仏などとも、同様の条約を結ばされた。
〇大老・井伊直弼が、天皇の勅許も得ずに無断で条約を結んだと批判され、批判者を弾圧する安政の大獄が起きた。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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●不平等条約、締結 |
30 |
70 |
10 |
3 |
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4 |
1 |
1 |
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1 |
▲筆者の意見
①アメリカの帝国主義的西進政策の行き着く先は日本で、アメリカの本音は、西欧帝国主義国家に食い荒らされつつあった中国市場への食い込みであった。
②幕府が不平等条約を受け入れたために、その解消のため、無理な苦しい外交が続いた。
③条約は、日本が、世界に一周遅れた帝国主義路線を進むことになった遠因になった。
➃米国領事・ハリスが、英仏の脅威を煽って条約を押し付けたとはいえ、日本にも30%程度の責任があったと思う。
タカ 撮影:鳥好閑人
戦争責任③ 台湾出兵 [戦争責任]
〇1873年(明治6年)、西郷隆盛らの征韓論
かたくなに開国を拒む朝鮮に対し、西郷隆盛を派遣して国交要求するという方針を内定。直後に、欧米から帰国した大久保利通らが「国内整備優先」を主張し、反対した結果、征韓論派の参議が一斉辞職(明治六年の政変)。しこりが残った。
●1874年(明治7年)台湾出兵(明治政府が行った初めての海外派兵)
1871年、台湾に漂着した宮古の島民が、原住民に殺害された報復として出兵した。そして、台湾を支配する清国に、賠償金を支払えと要求した。一方、清国は台湾人を支配が及ばない野蛮人と主張し、賠償を拒否した。
大久保利通は、幕府内の反対を押し切って、陸軍中将・西郷従道を指揮官に任命し、台湾南部に上陸し制圧したが、戦死者12名、マラリアの病死者561名を出した。
大久保利通は、のち、清国に乗り込んで交渉した。イギリス公使の斡旋もあって、清国は台湾出兵を「義挙」と認め、賠償金に当たる見舞金を支払った。
出兵の目的は、あいまいだった国境線の画定、琉球王国を日本の領土として認めさせるきっかけにすること、征韓論に敗れた武士たちの不満の解消であった。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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●台湾出兵 |
50 |
50 |
2 |
1 |
1 |
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|
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▲筆者の意見
①欧米から帰国した大久保利通らが、西郷隆盛らの征韓論に反対する理由を「国内整備優先」と主張しながら、台湾出兵に打って出たのは、不満分子の目を外に向けるため。
②台湾出兵は帝国主義への一歩とみることができる。台湾出兵を取り仕切った、大久保利通は、これで、明治新政府の第一人者として認められた。
オオグンカンドリ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任➃ 江華島事件 [戦争責任]
●1875年(明治8年)、江華島事件
明治政府が初めて、朝鮮と開国を巡って衝突した事件。
明治政府は、朝鮮の開国をめぐって交渉を重ね、2月に「日朝修好条規」の調印に成功した。しかし、その後、朝鮮は開国の約束を反故にするなど不誠実な態度をとった。
そこで、9月、朝鮮沿岸に軍艦・雲揚を派遣して、測量等の挑発行動をとった。江華島に近づくと、朝鮮側が砲撃をしてきた。雲揚が応戦して砲台を破壊し、占拠した。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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●江華島事件 |
50 |
50 |
4
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2 |
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2 |
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|
▲筆者の意見
①前項で触れた「西郷隆盛の征韓論」が敗れて、国内に大きなしこりが残ったが、このしこりが明治新政府を江華島に向かわせたとも考えられる。
②欧米に押し付けられた不平等条約を朝鮮に押し付けたことになる。欧米の開国要求のアジア版か。
③日本はやや横暴、朝鮮は不誠実であって、責任は五分五分。
戦争責任⑤ 壬午事変 [戦争責任]
〇1880年(明治13年)、山県上奏文
1874年(明治7年)の「台湾出兵」のあと、清国は、日本を意識して陸海軍の軍拡に努めていた。大小軍艦60余隻を保有し、なお増強中であったが、日本はそれに気づくのが数年遅れた。
1880年になって、参謀本部長・山県有朋が、中国の脅威と自国の富国強兵への転換を天皇に上奏した。
●1882年(明治15年)7月、壬午事変(朝鮮の反日派クーデター)
このころ、朝鮮では国王の父親・大院君と、王妃・閔妃の派閥に分かれて抗争していた。政権を担っていた閔妃は、日本に倣った開化政策をとり、日本の軍事顧問の力を借りて軍隊の近代化などを進めていた。
汚職事件を契機に、親清派の大院君の支持を得て兵士が反乱を起こし、政府内から親日派を一掃しようとした。民衆もこれに呼応して日本公使館を包囲、投石した。日本の公使館員らは命からがら帰国したが、約10名が殺害された。
反乱を鎮圧したのは清国で、大院君を清国に連行し、閔氏政権を復活させた。事変は清国の仲介で、犯人の処罰、被害者への賠償、公使館の原状回復、軍隊の駐留承認など示談(済物浦条約)が成立した。
親日派であった閔妃一族は、事変後、親清派に寝返った。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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●壬午事変 |
20 |
80 |
5 |
2 |
0 |
3 |
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▲筆者のコメント
①朝鮮は日本と中国の代理戦争の場であった。事変の結果、中国の朝鮮政府に対する影響力が増大し、一方、日本国内では中国、朝鮮に対する反感が強まった。
②朝鮮に渡った日本人が、コメの流通を牛耳って、穀物価格の高騰を来すなどの問題行動もあった。
③1881年9月、福沢諭吉が、日本には欧米列強のアジア進出から中国と朝鮮を守る責任があると、「時事新報」に書いたが、中国の強国化を認識した一年後の1882年11月には、中国軽侮の風潮を戒め、軍拡の必要性を説いた。日本は帝国主義の時代に入ったと言える。
コオリガモ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑥ 甲申事変 [戦争責任]
〇1883年(明治16年)朝鮮・独立党の結成
混乱する李氏・朝鮮で、青年政治家、官僚などの開化派が、清朝からの独立をめざして「独立党」を結成した。中心人物は、金玉均、朴泳孝など。独立党は、清朝と結んでいる閔妃一族などの保守派の「事大党」と対立した。
〇清仏戦争(1884-1885年) フランスの保護領・安南(現ベトナム)がフランスに助けを求め、フランスと清朝が戦争になったが、清朝が負けて、天津条約により清朝は安南に対する宋主権を放棄した。
●1884年(明治17年)、甲申事変
12月に、独立党の金玉均が中心になって、日本公使と手を組んでクーデターを起こし、日本軍を動かし王宮を占領し、事大党の閔妃ら要人を殺害した(乙未事変)。すぐに、閔妃側を応援する袁世凱が率いる清国軍が反撃、日本側はすぐに撤退したため3日で終息し、金玉均と朴泳孝らは日本に亡命した。これが甲申事変である。
〇1885年(明治18年)天津条約
伊藤博文特命全権大使と、清国の李鴻章の会談で下記を取り決めた。すなわち、朝鮮から両軍撤兵、今後は軍事教官を派遣しない、出兵時は事前通告すること。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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●甲申事変 |
40 |
60 |
5 |
3 |
0 |
2 |
|
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▲筆者のコメント
①閔妃はもともと親日派で、親清派の大院君と対立していた。壬午事変を境に閔妃を反日、親清に追いやってしまったのは残念。
②独立党の金玉均らは、「清国は、清仏戦争に負けてベトナムを守れなかった。朝鮮は、日本についた方が良いのではないか」と考えたと思う。
③甲申事変は、福沢諭吉が「脱亜論」(脱亜入欧)を唱える契機になった。諭吉は、「悪友を親しむ者は、共に悪友を免かる可からず」といっている。清国と朝鮮の近代化をあきらめ、日本だけの西欧近代化を目指そうとしたと思う。(和魂洋才)
カラムクドリ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑦ 日清戦争 [戦争責任]
〇1889年(明治22年)山県有朋の主権戦、利益線
山県有朋は、国防上自国の主権が及ぶ国土の範囲を「主権戦」、その国土の存亡に関わる隣国の状態を「利益線」と定義し、朝鮮半島の独立・中立は、まさに日本の利益線になると主張した。
主権戦・利益線の概念は、訪欧の際オーストリアの大学教授から教えられたと言われている。
〇1894年(明治27年)4月、東学党の乱
東学党とは、日本や西洋の学問を排斥する朝鮮人の運動体で、朝鮮政府に抵抗して反乱を起こした。朝鮮政府は、清国に出兵を要請した。この乱は、日清両軍の介入により短期間に鎮圧されたが、清国が天津条約に反して、出兵の事前通告をしなかったため、日本が抗議をし、両軍がにらみ合う形勢となった。
●1894年(明治27年)8月、日清戦争
清国が日本の抗議に対応しなかったため、日本は8月になって宣戦布告をした。戦闘は日本の圧勝で、北京攻略の直前に講和会議が始まり、1895年4月に「下田講和条約」が結ばれた。
下田条約の成果は、①朝鮮半島の独立承認、②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、③賠償金2.5億両、④新規に杭州など4港開港
〇1894年(明治27年)日英通商航海条約締結
この条約により領事裁判権などの不平等が改善され、1858年の日米修好通商条約以来の不平等条約が、ようやく解消された。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
||
●日清戦争 |
40 |
60 |
20 |
8 |
8 |
4 |
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▲筆者のコメント
①日本は、日清両国が協力して朝鮮の内政改革に当たろうと提案したが、清国は拒否した。
②清国は出兵理由を「属邦保護」のためとしたが、日本は、朝鮮は独立国で属邦ではないと主張した。
③日清戦争は、日本の自衛戦争で日本に責任はないという見方があるが、内乱を利用した内政干渉ともいえる。南下を狙うロシアに危機感を与えたと思う。
➃日清戦争に勝って、戦争は領土の割譲、賠償金の取得など、割の良いビジネスと見做す気分が国民にまで蔓延した。大敗北して痛い目に合うまで治りそうもない。
ツツドリ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑧ 三国干渉 [戦争責任]
●1895年(明治28年)5月 三国干渉(遼東半島を清国に返還)
露独仏の三国は、「下田講和条約」で日本が獲得した遼東半島は過分だとして、清国に返還するよう干渉した。返還要求は、ドイツが言い出してロシアが乗ったとされている。
日本は、直ちに返還に応じたが、西欧列強の思惑を察知して、多めに賠償を取ったと言われている。
〇1898年(明治31年)露清密約
ロシアは、日本が遼東半島を清国に返還したのを受けて、清国から旅順、大連を租借した。しかも、清国に対し、日本の脅威に対する安全を保障する約束を交わした。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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●三国干渉 |
20 |
80 |
10 |
2 |
|
|
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5 |
|
2 |
1 |
▲筆者のコメント
①日本政府は、三国干渉を見越して、ロシアへの国民の敵意を煽った節がある。国民には、ロシアに対し臥薪嘗胆(恨みを晴らすため我慢する)の気分がみなぎった。
②当時の日本の政治状況は、政府の対外強硬に対し、国民は減税を求めて対立していたが、日清戦争では挙国一致が成立し、対露軍拡が容易になった。
③朝鮮は独立を与えられたが、朝鮮宮廷は逆に親ロシアに舵を切った。親の心子知らず。
フクロウ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑨ 北清事変 [戦争責任]
〇1899年(明治32年)義和団の乱
日清戦争の敗北により、清国は西洋列強の草刈り場となっていた。特に揚子江周辺の英国と、満州進出のロシアなどが競い合っていた。
清国では、西洋の排撃と清国の独立を掲げる義和団の暴動が本格化した。
●1900年(明治33年)北清事変
北京に乱入した約20万の義和団は、外国の外交官などを殺傷した。各国の外交官や居留民はバリケードを築き、55日に亘り抵抗し、救援を待った。
清国政府は、義和団に同調し、各国に宣戦布告をした。日英米仏露独墺伊の8か国は連合軍を組織して民間人の救出に当たった。鎮圧に最も貢献したのは日本とロシアであった。事変後、北京議定書が結ばれて、日本は駐屯軍を常駐させた。
〇1900年(明治33年)第二次露清密約
ロシアは、北清事変にかこつけて軍隊を増派し満州に居座った。清国は、第二次露清密約を結んで、満州全域をロシアの勢力圏と認めた。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
||
● 北清事変 |
0 |
100 |
10 |
0 |
6 |
|
|
4 |
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|
|
▲筆者のコメント
①当時、日本は、「内に立憲」、「外に帝国」を説く言論が多かった。
②民本主義者・吉野作造は、朝鮮の植民地化や満州の半植民地化に反対の言論を展開した。だが、多くの批判者がおり、孤立無援で困難を極めたようだ。
③現在の米中覇権時代にも、中国、朝鮮に寄り添ってともにアジアの平和と繁栄を築こうとする論者は少ない。吉野作造の時代と何も変わらない。
アオバト 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑩ 日英同盟 [戦争責任]
〇1900年頃の東アジアの情勢
19世紀は、英国の海洋覇権にロシアが不凍港を求めて挑戦していた。20世紀初頭には、両国対決の舞台は東アジアに移った。
ロシアの南下を牽制しようとする英国は、日清戦争や北清事変で示した日本の実力を買って、日本を「極東の憲兵」と見做すようになった。
日本にとっても、朝鮮半島の状況は日清戦争以前より悪化し、親露派が親日派を圧倒していた。国王・高宗は、一年間もロシア公使館に移り住んでいたほどである。
●1902年(明治35年)日英同盟
ロシアを仮想敵とする日本は、利害が一致する英国と1902年に日英同盟を締結した。ロシアはこれに対抗して、露仏同盟を結んだ。英国の意図は、日露一騎打ちなら、英仏は中立。英国介入なら仏国も参戦する意味である。
〇1904年(明治37年)英仏協商
英仏は、ともに日露に介入しない協定を1904年に結んだ。日本は、日英でロシアを挟み撃ちにする夢は破れたが、英国の間接支援に希望をかけた。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
||
●日英同盟 |
20 |
80 |
5 |
1 |
|
|
|
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4 |
|
|
▲筆者のコメント
①海洋覇権を握り、孤高を好む英国を同盟国にできたのは、日本の大金星。
②戦艦三笠の購入や戦費調達など、日英同盟は十二分に役立った。
③英国はロシアの南下を防ぎ、アジアの植民地支配を継続するため、日本を利用した責任がある。日本は逆に、英国に利用された責任がある。
イスカ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑪ 日露戦争 [戦争責任]
〇1903年 満韓交換論、日露交渉
日本では、国力差を考えて満州をロシアの、朝鮮半島を日本の勢力圏とする、いわゆる満韓交換論さえ唱えられていた。だが、小国日本の思惑を、大国ロシアは一蹴し朝鮮への野心も捨てなかった。
最後の手段として朝鮮半島の39度線で勢力を分割しようと交渉したが、ロシアに無視された。
●1904年(明治37年)日露戦争
日本は、交渉の不調を受けて、ついに御前会議で開戦を決定、2月10日に宣戦布告をした。陸戦では、鴨緑江会戦などの緒戦で勝利し、旅順要塞の激戦を制して、ついに奉天会戦でロシア軍を敗走させた。その3月10日は陸軍記念日とされた。
海戦では、黄海海戦と日本海海戦に完勝した。これでロシア皇帝は戦意を失った。5月27日は海軍記念日になった。
〇1905年 ポーツマス条約
日本は、好意的な中立国であるアメリカのルーズベルト大統領に、講和のあっせんを依頼した。ポーツマス条約の概要は下記。
①日本の韓国における優越権を認める②日露両国の軍隊は、満州から撤退する③南樺太を割譲する➃南満州鉄道と炭鉱の租借権を譲渡する⑤沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える
〇1905年 日比谷焼き討ち事件
9月5日、戦争に勝ったにもかかわらず、賠償金が得られなかったとして、ポーツマス条約反対集会が開かれた。約10万の群衆が暴徒と化し、日比谷周辺の内務大臣官邸、新聞社、交番などが焼き討ちされた。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
||
●日露戦争 |
20 |
80 |
20 |
4 |
|
4 |
|
12 |
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▲筆者のコメント
①原敬の日記によると、国民も政治家も日露戦争を求めていなかった。だだ、声に出して反対を主張するものはなかった。何やら太平洋戦争の時と同じに見える。
②日清戦争に勝って「帝国」の膨張を目指し軍拡に励んだ陸海軍は、相手の譲歩を過大に期待して、勢いで戦争に突入したようだ。
③実戦と並行して、明石元次郎大佐がロシアに潜入し、内部攪乱を図った結果、ロシアは戦意を失ったとされている。今の日本は、諜報戦、情報戦の技術も意識も失ってしまっている。
コヨシキリ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑫ 四国協商 [戦争責任]
〇1882年 三国同盟(独襖伊)
ドイツが、フランスを仮想敵として、1882年にドイツ、オーストリア、イタリアの三国間で結んだ同盟である。その後、ドイツは、モロッコ問題で英仏を敵に回し、英国に建艦競争を挑んだ。また、オーストリアは、ロシアとバルカン半島問題で対立した。この同盟は、のちに第一次世界大戦の一方の当事者となった。
〇1907年 三国協商(英露仏)
フランスはドイツ宰相・ビスマルクと対立し、ロシアと手を結んで1894年に露仏同盟を締結した。英国も三国同盟に対抗して、フランスに接近し1904年に英仏協商を、ロシアに接近して1907年に英露協商を結んだ。これでドイツ包囲網が完成した。
〇1907年、日仏協約
日本はフランスと植民地支配の相互承認をめぐって日仏協約を結んだ。日本の台湾、南満州の支配と韓国の権益を、フランスのインドシナ支配を認める内容である。
〇1907年、日露協約
日露戦争後、条約とは別に、清国から得た満州の権益をめぐって日露協約を結んだ。日本は南満州を、ロシアは北満州を勢力範囲とする内容である。1917年のロシア革命で消滅するまでに4度にわたって改定された。
●1907年 四国協商
日本は三国協商の当事国と上記のように協約を結び、1902年の日英同盟と相まって、ドイツ包囲網の一角の地位を得た。
〇第一次世界大戦前のバルカン半島情勢
19世紀までオスマン帝国(現トルコ)が支配していたバルカン半島は多民族国家で、国力の低下に伴って、民族独立を求める戦争が頻発した。ドイツ、オーストリア、ロシア、イタリアなどが介入してヨーロッパの火薬庫といわれていた。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
||
●1907年 四国協商 |
20 |
80 |
5 |
1 |
|
|
|
1 |
1 |
1 |
1 |
▲筆者のコメント
①日露の対立が決着した後、世界の注目は欧州に集まり、三国同盟と三国協商の対立が鮮明になった。
②1907年は「協商の年」として世界史に記憶されている。日本は英露仏襖伊米の7か国と大使を交換し、大国の仲間入りを果たした。
③日本はドイツ包囲網の一角を占めたが、地政学的に優位な位置にあり、生存戦略をめぐらせるチャンスあったが十分活かせたとは言えない。
アオバズク 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑬ 日韓併合 [戦争責任]
〇朝鮮半島の情勢
14世紀末に成立した李氏朝鮮は、中華帝国に冊封された属国であった。宗主国である清国への忠誠が強い半面、日本への侮蔑意識が高かった。朝鮮は清国の衰退を見越して1897年に国号を大韓帝国に改めたが、独立には遠く、宗主国をロシアに乗り換えただけであった。
〇1904年2月 日韓議定書
日露戦争の直前、日本は戦争の準備のため、韓国と日韓議定書を交わした。軍事行動の自由の保障を取り付けたが、ロシア軍はまだ駐留していた。
〇1904年8月 第一次日韓協約
韓国に日本人の財政、外交顧問を置き、外交案件の事前協議を約束した。
〇1905年11月 第二次日韓協約
皇帝・高宗の排日策動を抑えるため、韓国の外交権を接収し、漢城に総督府を設置した。
〇1907年7月 第三次日韓協約
皇帝・高宗の策動がやまないため、韓国から内政権を接収し、韓国の軍隊を解散させ保護国とした。
●1910年8月 日韓併合条約
植民地化に反対していた伊藤博文が、奉天で1909年に安重根により暗殺されたこともあって、日本は韓国を植民地とし、朝鮮総督府を設置した。なお、欧米諸国への根回しはされていたようだ。
〇日本統治時代(1910~1945)の韓国
日本は、40校くらいしかなかった学校を、30年間に、1千校以上に増やした。苦しい財政事情の中で公共事業も本土並みに実施した。
ロシアの属国にされることを考えたら、日本統治時代は良かったなどの声がある半面、威張り腐る日本人もいたようだ。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 日韓併合 |
60 |
40 |
30 |
18 |
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12 |
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▲筆者のコメント
①スタンフォード大のマーク・ピーティー先生によると、近代植民地帝国と違って、日本の植民地は単なるエゴではなく、戦略的利益に合致するよう、安全保障上の慎重な配慮により領有されたという。
②日本は、日清戦争時には「朝鮮半島の独立」を戦争目的に掲げたが、日露戦争時には「保全」に、日韓併合条約では「植民地」にしてしまった。
③日韓併合はどんな善行を積んでも、また、どう説明しても今の韓国人の理解は得られないと思う。
カンムリワシ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑭ オレンジ計画 [戦争責任]
[戦争責任シリーズの目的]
戦後75年が経過したが、日本はいまだに、国内で「戦争責任」につて、どの国に、どのような責任があったかを糺すことをしなかった。
後世の国民が、再び同じ過ちを繰り返さないためにも、国民の名において、戦争と敗戦の責任を明確にしなければいけないと思う。
当ブログの「戦争責任シリーズ」では、1853年のペリー来航から、1945年の敗戦までの事件を取り上げ、下表のような戦争責任評価点を算定している。
「米国のオレンジ計画」
〇1905年10月 桂・ハリマン協定
桂太郎首相と米鉄道企業家ハリマンとの間で交換された協定で、南満州鉄道(満鉄)の経営に米企業の参加を承認した。ポーツマス講和会議から帰国した小村寿太郎外相の強い反対で3か月後に破棄された。アジア進出の足掛かりを欲しがっていたアメリカに強い不信を抱かせた。
〇1908年11月 高平・ルート協定
日露戦争後の太平洋、中国問題に関する日米協定。商業上の機会均等のほか、フィリッピンと満州の特殊権益を相互に承認し、日米の対立解消に役立った。この時期、日米関係はそれほど悪くなかった。
●1911年 オレンジ計画
オレンジ計画は、将来起こり得る日本との戦争に対応するためのアメリカ海軍の戦争計画である。1906年に調査が開始され、1911年に最終案が作成された。以後、日本の急速な発展膨張につれて見直されて、最終的には、海兵隊と海軍による太平洋制圧作戦につながった。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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●1911年 オレンジ計画 |
30 |
70 |
10 |
3 |
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7 |
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▲筆者のコメント
①日露戦争から第一次世界大戦の期間、高平・ルート協定により、日米は協調関係にあり敵対はしていなかったが、アメリカは、中国問題をめぐって、いずれ日本と敵対関係になると見越していたようだ。
②オレンジ計画は30年後に、太平洋戦争で実践され、日本はまんまと嵌ってしまった。
③覇権競争の歴史は、昔も今も変わらない。日本は、太平洋戦争期と1970年代の高度経済成長期の2回、米国による日本たたきにあった。今は中国が叩かれている。
オオアジサシ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑮ 第一次世界大戦に日本参戦 [戦争責任]
〇1914年7月、第一次世界大戦の勃発
1914年6月、セルビアの民族主義者が、ボスニアの州都サラエボで、オーストリアの皇太子夫妻を暗殺する事件が発生した。オーストリアがセルビアに宣戦布告、つづいてドイツ、ロシア、フランス、イギリスが参戦した。イタリアは翌年、同盟側であるドイツ・オーストリアから離れて、ロシア、フランス、イギリスの協商側についた。
●1914年8月、第一次世界大戦に日本参戦
日本は日英同盟を理由に、加藤孝明外相主導で宣戦布告をし、ドイツの中国拠点である青島&膠済線や、ドイツ領南洋諸島を占領した。その後日本は、地理的優位もあって、輸出が増大し工業生産は5倍に増えた。
〇1917年4月、アメリカの参戦
ドイツ潜水艦の乱暴な作戦などに怒って、参戦し協商側を助けた。
〇1917年11月、ロシア革命
政変でソビエト政権が成立、1918年3月、ドイツと単独講和をした。
〇1918年11月、第一次世界大戦の終戦
ドイツに革命がおこり、皇帝ヴィルヘルムⅡ世が退位し、戦争が終わった。世界50か国が参戦した大戦に、7千万人以上の軍人が動員され、死亡者は戦闘員9百万人、非戦闘員7百万人に上った。
この戦争で、ロシア・ロマノフ王朝、ドイツ帝国(ヴィルヘルムⅡ世)、オーストリア・ハプスブルグ帝国の三つの王朝が崩壊した。
〇1919年6月、パリ講和会議
ベルサイユ条約が結ばれ、ドイツに対し高額な賠償金などの厳しい制裁を課し、ドイツ植民地帝国の領土が戦勝国の間で分割され、これが次の世界大戦の伏線となった。
一方、民族運動や労働運動が活発になり、ヨーロッパの世界支配は揺らいで、アメリカと日本が台頭してきた。
〇1920年1月、国際連盟成立
米大統領ウイルソンの平和原則14か条の趣旨を尊重して、国際連盟規約が合意された。十四か条のうち主要5か条は、講和の透明性、海洋の自由、関税障壁の撤廃、軍備縮小、植民地の公平な処置であった。
日本が主張した「人種平等の原則」は否決された。皮肉にもアメリカは議会の反対で国際連盟に加盟しなかった。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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●第一次世界大戦に日本参戦 |
20 |
80 |
20 |
4 |
|
|
2 |
2 |
2 |
8 |
2 |
▲筆者のコメント
①青島&膠済線(青島―済南)の占領は、パリ講和会議でおおいにもめた。米国は即返還を主張し、日本は適当な時期に中国に返還すると約束させられた。
②南洋諸島占領は、ぎくしゃくする米国への備えの意図があったと思われる。
③日本はアジアのドイツ植民地を火事場泥棒的に手に入れたことで、帝国主義を強め次の戦争の芽を育てたと思う。
➃世界初の総力戦の恐ろしさが分かったはずなのに、第二次世界大戦を回避できなかった人類の責任は重い。
オオミズナギドリ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑯ 対華21か条要求 [戦争責任]
〇1911~2年 辛亥革命
1899年の義和団事件の結果、日本をはじめ西欧各国の軍が駐留し、清国の半植民地化が進んだ。清朝(満州族)の支配に不満を持つ漢民族の不満が爆発し四川省で暴動が起こり、清国軍の革命派がこれに呼応した。
革命の動きは全国に拡大し、南京で1912年1月1日孫文を臨時大統領とする「中華民国臨時政府」が成立した。清国軍を率いた袁世凱が孫文と取引をして、皇帝・溥儀を退位させ自身が大統領に就き、皇帝の位まで望んだが志半ばで死去した。その後軍閥が跋扈し中国の政情は安定しなかった。
●1915年1月 対華21か条要求
第一次世界大戦のさなか、日本が中華民国(中国)に対して21個の要求をした。主要な5個は下記。
①ドイツ権益(青島、南洋諸島)の継承を日本に認める
②関東州と南満州鉄道の権益の99年間延長&南満州と東部内蒙古の解放
③漢冶蓱公司(製鉄会社)の日支合弁に関する要求
➃中国沿岸の港湾や島々を他国へ割譲しないこと(日本占有)
⑤中国権益(警察・兵器製造・鉄道の支配権)の譲渡(この項は列強の苦情で削除)
中国は日本の要求に抗するすべがなく受け入れたが、中国国民は屈辱を感じ、反日デモを起こした。西欧諸国は日本が大戦に参加してアジアからドイツを追い払った見返りにこれを容認した。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 対華21か条要求 |
80 |
20 |
30 |
24 |
6 |
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|
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▲筆者のコメント
①対華21か条要求が中国国民を怒らせたのは確か。日本が、交渉相手である袁世凱の国内掌握術に乗せられた意味もある。
②対華21か条要求を西欧諸国はしぶしぶ認めたが、米国は不満を持ったようだ。黄色い猿め、と。
ヤマドリ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑰ シベリア出兵 [戦争責任]
〇1917年10月、ロシア革命
1905年の第一次ロシア革命に続き、1917年2月、世界大戦への反戦と平和を訴える大規模な暴動が全国に広がり、軍隊も反乱を起こした。皇帝ニコライ二世は捕らえられロマノフ朝が倒れた(2月革命)。
市民を中心とする臨時政府ができたが、海外から社会主義者が帰国して、レーニン指揮のボリシェヴィキが臨時政府を倒してプロレタリア独裁のソビエト政権を樹立した(10月革命)。
ソビエト政権は、1918年3月、世界大戦の敵国・ドイツと単独講和をした。
●1918年、シベリア出兵
第一次世界大戦の連合国が「ロシア革命軍に包囲されたチェコ軍団を救出する」を名目にシベリアに共同出兵した。これはロシア革命に対する干渉戦争の一つである。
日本はウラジオストック上陸以来、増兵を繰り返し、連合国の協定を大きく超える7.3万人を派兵した。1919年秋にロシア帝国政権が崩壊し、チェコ軍団は救出されて出兵の名目がなくなり、欧米の軍隊が撤兵した後も日本軍は1922年10月まで駐留を続けた。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● シベリア出兵 |
60 |
40 |
20 |
12 |
|
|
4 |
4 |
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|
|
▲筆者のコメント
①シベリア出兵は、日本外交史上最も失敗した外交といわれている。首相は平民宰相といわれた原敬。
②原敬内閣は、出兵目的をチェコ軍団救出から、朝鮮、満州の防衛に変更して駐留を継続したことで、日米関係を悪化させ、日ソ国交回復の妨げになった。
③シベリア出兵で、日本は3500名の死傷者、10億円の戦費を費やした。一方、ソビエト・ロシアは死傷者8万人、戦費6億ルーブルとされている。
キジ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑱ 排日移民法 [戦争責任]
〇1882年、中国人労働者移民排斥法
中国人移民の低賃金労働が白人の雇用を奪うとして、法律で中国人移民が禁止された。
〇1906年、日本人学童隔離問題
サンフランシスコの日本人学童約100名が、地震による校舎損傷を口実に、東洋学校への転向を強いられた。この隔離命令は、連邦政府の干渉で翌年撤回されたが、交換条件としてハワイ経由の米本土移民は禁止された。1908年に外務省と駐日大使の間で、「日米紳士協定」が結ばれ、移民の自主規制が行われ、しばらくの間小康を得た。
〇1913年、外国人土地法
カリフォルニア州で、「単純労働から脱却して現地に定着する日系人」への警戒感から土地所有が禁止された。
〇1920年、写真結婚の禁止
日本人移民男性が、本土の女性と写真で見合いして結婚するケースが増加した。見合い結婚の習慣のないアメリカ人から批判され、結局、日本政府により写真結婚は禁止された。
●1924年、米連邦議会の排日移民法
それまで、州レベルの排日移民問題が、連邦議会レベルの問題に発展した背景は下記の通り。
①日露戦争時、外債引受や平和交渉支援をしたにもかかわらず、日本が門戸開放に後ろ向きであった
②日露戦争後、日本が中国大陸進出を開始し、アメリカ資本と衝突するようになった
③勤勉な日本人移民が、アメリカ人の雇用を奪うとして排斥運動が強まった。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
||
|
10 |
90 |
20 |
2 |
|
|
18 |
|
|
|
|
▲筆者のコメント
①アメリカへの移民の門戸を閉ざされた日本人は、ブラジルへの移民を急増させた。
②日本は大きな移民先を失ったため、満州重視に傾き後の満州事件につながったと思う。
③敗戦後昭和天皇は、「カリフォルニア移民拒否が日本国民を憤慨させ、日米開戦の遠因となった」と考えていたようだ。
コウライキジ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑲ ワシントン会議 [戦争責任]
●1921年、ワシントン会議
第一次世界大戦後、米大統領ハーディングの提唱により、ワシントンで行われた国際軍縮会議。会議後、ワシントン体制というアジア太平洋地域の新秩序が出来上がった。
会議の背景にあったのは、戦後の不景気で各国とも軍事費の負担に苦しんでいたこと、日本の中国進出に歯止めをかけること、アメリカが中国市場の門戸開放を望んだこと、日本海軍の拡大を阻止することであった。
内容としては、下記3つの条約が締結された。
①四か国条約
日英米仏の太平洋における領土争いを禁止する条約で、引き換えに日英同盟が破棄された。日本にとって日英同盟は宝物であった。同盟破棄によって日本は孤立を深め、20年後日米戦争に突入してしまった。中身の空っぽな四か国条約の代償は大きかった。
②ワシントン海軍軍縮条約
主力艦保有比率が米10、英10、日6、仏伊3.34と決められた。日本は7を主張したが叶えられなかった。
③九か国条約
中国大陸における門戸開放・機会均等の原則と、中国の主権尊重を決定した条約。日英米仏伊のほか、中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルの9か国が締結した。
日本の中国における特殊地位は否認され、第一次世界大戦参戦で占領した山東の中国への返還が決定された。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
||
● ワシントン会議 |
|
100 |
30 |
|
|
|
20 |
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10 |
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|
▲筆者のコメント
①日本は、第一次世界大戦の好景気の反動不況により緊縮財政と軍事費削減が必要であった。民意もあって、あっさりと条約に署名した。幣原喜重郎外相の主導で、いわゆる幣原協調外交を展開した。
②国内では、対華21か条要求やシベリア出兵などの強硬政策は不評であった。いわゆる大正デモクラシーの真っ最中で、軍縮は歓迎された。
ソリハシシギ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任⑳ 済南事件 [戦争責任]
〇1920年代の中国の状況
1920年代の中国は、中華民国(北軍)、中国国民党(南軍)、共産党軍が三つ巴の抗争を繰り返していて、下記のように治安が悪かった。
①1912年~、中華民国(北洋閥)
1911年、辛亥革命で革命軍に協力した袁世凱が、中華民国の臨時大統領に就任した。北京周辺から北の奉天までを支配地域としたので、北洋閥ともいわれる。群雄割拠の時期を経て1924年に張作霖が実権を握った。1928年に張作霖は日本軍に爆殺され、張学良に引き継がれた。
②1921年~、中国共産党結成
1921年、上海でコミンテルンの中国支部として中国共産党が結成された。1924年、ソ連の指示を受けて国民党と国共合作したが、1927年の上海事件で決裂、中国国民党・蒋介石の弾圧をうける。党員58人から始まった共産党は、策謀の限りを尽くし、1949年に中華人民共和国を建国し現在に至る。
③1921年~、中国国民党
1921年、孫文が、広東政府を立ち上げ、大総統に就任した。1924年、ソ連の支援を受けた中国共産党と連携し勢力を拡大した。孫文の死後、引き継いだ蒋介石が、1926年に北京政府撲滅を目指して北伐宣言を発表した。
北伐軍は1927年に南京、上海を占領した。南京では外国領事館や居留地で暴行凌辱を行った(南京事件)。上海では戒厳令を布告し、共産主義者を粛清した(上海クーデター)。そして中国国民党は、ソ連、中国共産党と断交した。
1928年、蒋介石が率いる国民政府は国民革命軍を組織し、北伐を再開した。山東省で日本軍と衝突して、下記の済南事件を起こした後、北京で張作霖を敗走させ、国民政府による全国統一を宣言した。
●1928年5月、済南事件
日本は、青島―済南間の膠済鉄道を借りていて、沿線の鉱山は日中合弁会社が経営していた。山東省における日本人居留民は約1.7万人で、ほかにも多くの外国人が居住していた。
済南事件は、中国山東省の済南で、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件である。日本は、権益と居留民保護のため3千人程度の日本軍を派遣し、10倍の国民革命軍と武力衝突し、済南を占領した。
衝突の原因は、潜入した共産党員や軍閥の謀略説など諸説ある。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
||
● 済南事件 |
40 |
60 |
20 |
8 |
12 |
|
|
|
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▲筆者のコメント
①国民政府の蒋介石は、国際社会に向かって日本を非難する巧妙な宣伝をしたが、国際社会の評価はさまざまであった。
②1920年代の混乱する中国に、日本は深入りし弱みに付け込んだことで、のちの満州事変につながってしまった。中国に距離を置く戦略が欲しかった。
オオソリハシシギ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任㉑ 統帥権奸犯 [戦争責任]
〇1929年、世界恐慌
アメリカ発の世界恐慌で世界中が不況にあえぐ中、日本でも銀行の取り付け騒ぎ、休業、倒産が相次いだ。翌年、蔵相に復帰した高橋是清が、支払い猶予令を発し、紙幣を大増刷し、金輸出再禁止をして事態を収拾した。しかし、世界は経済のブロック化が急速に進行し、日本などの資源にお恵まれない国の経済は困窮を極めた。
〇1930年、ロンドン海軍軍縮条約の批准
1922年のワシントン会議で主力艦の軍縮はなったが、巡洋艦・駆逐艦などの建艦競争が進んだので、ロンドンで軍縮交渉がなされた。日本は、英米の7割近いトン数を獲得できたので批准した。
●1930年、統帥権奸犯
統帥権奸犯とは、天皇の統帥権(実際は軍部の実権)を侵害したとして、政府が糾弾された下記の問題である。
①統帥権は、陸海軍の指揮監督権で、軍部のトップが持つが、明治憲法第11条(天皇は陸海軍を統帥す)で統帥権は天皇大権の一つとされていた。天皇と軍部が直結し、政府は蚊帳の外におかれた。結果、政府は軍部を統制できなくなった。
②ロンドン海軍軍縮条約の批准をした当時の首相・浜口雄幸が、野党と軍部によって糾弾された。浜口首相が東京駅で襲撃され死亡したのは、この問題に不満を持つ軍部や右翼の仕業である。
③ここから軍部の独裁、暴走が始まり、軍国主義化が進んだ。
〇1931年3月、全日本愛国者共同闘争協議会
右翼社会主義思想を唱えた北一輝が、著書「国体論及び純正社会主義」を刊行した。これに共鳴する分子が、1931年3月に「全日本愛国者共同闘争協議会」という連合体を作った。
綱領は、亡国政治(政党政治)の覆滅、天皇親政実現、財閥打倒、階級対立克服により、右翼社会主義を実現すること。
不況による農者村の窮乏、娘の身売りなどに義憤を感じていた青年将校たちに浸透した。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 統帥権奸犯 |
100 |
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30 |
30 |
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▲筆者のコメント
①天皇主権を定めた大日本帝国憲法には欠陥があったが、山県有朋などの明治の元勲たちが防波堤になっていた。彼らが亡くなると、その欠陥を軍部に利用され、天皇はだしに使われてしまった。
②当時の政党は堕落していたが、浜口首相の暗殺を一つの契機に、政党政治が消滅したのは日本の不幸だった。
アオサギ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任㉒ 満州事変 [戦争責任]
戦争責任㉒ 満州事変
〇1930年前後の日中の状況
北京から満州にかけて支配していた軍閥の張作霖は、北に攻めあがる蒋介石に敗れて、北京から脱出し、満州に逃げ帰った。力を失い撤退する張作霖は、1928年に日本軍によって爆殺された。
首謀者は関東軍参謀・河本大作大佐で、軽い停職処分で済まされた。昭和天皇は時の首相・田中儀一を叱責し、田中内閣は総辞職に追い込まれた。
張作霖の跡を継いだ息子の張学良は強い恨みを持ち、なんと敵の蒋介石と組んで、日本と決別した。
〇満州事変の立案者:石原莞爾
石原莞爾は1928年10月、関東軍の参謀となり、満州事変を立案・実行した中心人物である。彼は、東洋の代表の日本が、西洋の代表のアメリカと最終戦争を行うと予言し、勝つためには満州が必要だと考えた。
●1931年、満州事変
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路の一部が爆破された。これは関東軍による謀略であった。関東軍は満州各地を占領し、1932年2月、満州全土を制圧した。
張学良は南に逃げて、蒋介石の配下となり、毛沢東との協力を拒む蒋介石を説得して、抗日民族統一戦線を作った。
当時の若槻礼次郎内閣は、不拡大方針を取ったが、関東軍は制止を振り切って宣戦を拡大した。制御不能になった若槻内閣は総辞職をした。跡を継いだ首相・犬養毅は暴走を止めようとしたが、軍部の反発を買い、後の五・一五事件につながった。新聞は一斉に満州事変を擁護する記事を書いた。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 満州事変 |
80 |
20 |
50 |
40 |
7 |
|
|
3 |
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▲筆者のコメント
①石原莞爾の最終戦争論は、世界の覇権国の歴史を想起させる。日米が覇権を獲得すると想定し、最後は日本が勝って世界を支配したいと考えた。なにやら習近平の思考に似ている。
②「満蒙は日本の生命線」をスローガンに、満州事変を戦ったが、日本は国際的に孤立し、ますます軍部独裁が強まった。
③蒋介石、毛沢東、張学良の三者を結束させ、「抗日民族統一戦線」を作らせたのは、日本の大失敗。
アオバズク 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任㉓ 五・一五事件 [戦争責任]
〇1931年12月、犬養毅内閣組閣
12月13日、政友会の犬養内閣が成立した。高橋是清蔵相は、金輸出再禁止を断行し、デフレ不況から脱出して世界で一番に景気回復を達成した。
〇1932年1月、第一次上海事変発生
中華民国の排日暴動を鎮圧するため陸海軍が出動し、中華民国軍を撃破、5月には停戦協定を締結した。事変の経緯は、日本軍部が中国人を買収し、日蓮宗の日本人托鉢僧を襲わせたことで衝突が始まった。満州事変への国際社会の注目をそらし、抗日運動を弾圧する狙いがあった。
〇1932年3月、満州国建国
清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀が執政となり満州国が建国された。「五族協和」の理想を掲げたが、犬養首相は国際社会の反感を考慮して、国として承認しなかった。世情は騒然とし、天皇暗殺未遂事件や、要人暗殺の血盟団事件が横行した。
●1932年5月、五・一五事件
5月15日、三上卓海軍中尉らが首相官邸に乱入し、「話せばわかる」という犬養を「問答無用」と射殺した。長い不況ですさんだ国民は、この暗殺を賛美した。
政党や財閥の腐敗に怒った世論が期待したのは青年将校たちで、荒木貞夫陸相と真崎甚三郎参謀次長を中心にいわゆる皇道派が結成され、「軍部独裁」の機運が盛り上がった。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
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英 |
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他 |
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● 五・一五事件 |
100 |
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20 |
20 |
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▲筆者のコメント
①五・一五事件の被告たちは、比較的軽い刑罰で済んだ。将校たちは執行猶予付きの刑、陸軍士官学校生は禁固4年で、かなり軽いものであった。軍以外の在野の共犯者は無期懲役の重い刑を課された。
②全国に減刑嘆願運動が興り、嘆願書は百万通を超えた。詰めた指をホルマリン漬けにした瓶が法廷に届けられる騒ぎもあった。
③テロが肯定されファシズムが横行する世情で、被害者のはずの犬養家にお米を売らないという業者まで現れた。
カワセミ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任24 国際連盟脱退 [戦争責任]
〇1932年6月、斎藤実内閣組閣
斎藤実海軍大将が首相に、高橋是清が蔵相に留任、内田康哉が外相に指名されが、実態は弱体連立内閣であった。斎藤首相は犬養が避けた満州国承認を行い、内田外相は議会で、国は焼けても満州の利権は守るとする「焦土演説」で世論を煽った。
〇1932年2月~9月、国際連盟リットン調査団
満州事変の戦争責任を調査するために、国際連盟はリットン調査団を派遣した。報告書は、中華民国の顔を立てつつ、日本の主張をすべて認める内容であった。蒋介石は苦渋の受諾をした。
●1933年3月、国際連盟脱退
関東軍は、満州国執政・溥儀に同調して熱河作戦を発動し、さらに領土拡張のための軍事行動を拡大した。日本政府はこれを容認し、日本に同情的であった英国を離反させた。
1933年3月、国際連盟において満州国不承認は42対1で可決されてしまった。日本は直ちに国際連盟脱退を表明した。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
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他 |
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● 国際連盟脱退 |
100 |
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30 |
30 |
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▲筆者のコメント
①犬養首相の後任選びの経緯には逸話がある。首相推挙の任に当たった西園寺公望が、上京途次、沼津駅で、陸軍皇道派の中心人物である秦真次憲兵司令官に、「今は国家非常のときですぞ。政党内閣で軍を指導できると思うか」とサーベルで脅しながら詰め寄られた。
②陸軍は後任に、対中強硬派で枢密院副議長の平沼麒一郎を推したが、天皇から「ファッショに近いものは絶対不可」のお言葉があって、結局、斎藤実元海軍大将に落ち着いた。
③国際連盟脱退に追い込まれたのは、日本がミスにミスを重ねた結果と思う。残っていればその後の運命が変わったかもしれない。
オオマシコ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任㉕ 二・二六事件 [戦争責任]
戦争責任㉕ 二・二六事件
〇1935年、天皇機関説事件
天皇機関説は、天皇を内閣や国会と同列の一機関として扱う考え方で、大正デモクラシーの時代に、美濃部達吉東京帝国大学教授らによって主唱された。
軍国主義の時代になると、天皇は憲法を超越する絶対的な権力を持つとする天皇主権説が主流となり、1935年、美濃部達吉教授は、不敬罪に問われ、貴族院議員を辞めさせられた。
陸軍は天皇機関説にとどめを刺すため、国体明徴声明を発表し、天皇主権のダメ押しをした。
●1936年2月、二・二六事件
2月26日、皇道派の青年将校が約1500名の兵を引き連れ、高橋是清蔵相や、斎藤実内大臣ら重臣を暗殺し、岡田首相も一時行方不明になった。政府機能がマヒする中、昭和天皇の厳命により暴徒は鎮圧され投降した。
〇事件の事後処理
事件の首謀者である青年将校ら19名は、裁判の結果銃殺刑とされ、理論的指導者の北一輝は直接関与はしなかったが死刑となった。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
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中 |
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● 二・二六事件 |
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30 |
30 |
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▲筆者のコメント
①朝5時に事件が起きてすぐ、乳母からの電話で昭和天皇が知ることになった。襲われて重傷を負った鈴木貫太郎の妻は天皇の乳母をしたことがあり、宮内省の医者を派遣するよう電話したことで、事件の拡大を防ぐことができた。
②五・一五事件の被告が、比較的軽い刑罰で済んだこともあって、軍部は甘く考えていたが、昭和天皇の怒りに触れて今回は重罪に処された。
③陸軍と仲が悪い海軍が品川沖に戦艦を派遣し、陸軍の反乱部隊を牽制し、鎮圧した。その後も、ことごとに不仲であった日本の陸海軍が、総力戦に勝てるわけがない。
シマエナガ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任26 支那事変 [戦争責任]
〇西安事件
華北の張学良は関東軍に父を殺され怒っていた。張学良は日本に勝つためには、国民党と共産党の内戦をやめて国共合作の体制が必要だと考えた。1936年2月にたまたま蒋介石が西安に滞在しているとき、監禁して翻意を促し、抗日民族統一戦線を作った。
●支那事変
①盧溝橋事件
1937年7月7日、日本軍が北京郊外の盧溝橋で夜間演習中、中国兵から二度にわたり発砲された。日本軍も応戦し、死傷者は日本十数名、中国80名に上った。その後も小競り合いがあったが、11日に再発防止の合意ができた。
②通州事件 北支事変
1937年7月29日、北京郊外の通州で、日本の通州守備隊と居留民200人以上が、もともと親日的であった中国軍閥によって虐殺された事件。
③第二次上海事件
1937年8月6日上海駐在の大山勇夫海軍中将らが殺された。日本租界への攻撃に端を発した日本軍との軍事衝突のこと。本事変の勃発によって北支事変は支那事変へ拡大した。
④南京事件
日本軍は上海占領に続き南京の攻略に着手した。1937年12月13日に占領したが、その際多くの捕虜と、民間人が虐殺されるいわゆる南京事件が起こった。
以後日本はゲリラ戦を戦うようになる。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
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中 |
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● 支那事変 |
80 |
20 |
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48 |
12 |
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▲筆者のコメント
①近衛文麿
1938年近衛文麿首相は「国民政府を相手とせず」と声明を出した。ドイツにたすけてもらるのだろうか。
②援蒋ルート
蒋介石総統のプロパガンダが巧妙で各国から援助が集まった。日中間ではもはや何も解決できない。
③事変と戦争
日本は支那事変の際、宣戦布告できなかった。米国の輸入を継続したいからである。
ホシガラス 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任㉗ 日独伊三国同盟 [戦争責任]
〇ノモンハン事件
1939年5月からら6月迄の第一次は引き分け、7月から9月までの第二次の戦闘はぼろ負けでようやく停戦にこぎ着けた。日本は敗戦をひた隠しにしたため、総力戦の技術の改善ができず、将来に生かせなかった。
〇独ソ不可侵条約
1939年8月23日、独ソ不可侵条約が電撃的に締結された。ドイツにとってはポーランド侵攻の準備のためであろう。
それを見た日本の平沼麒一郎首相は「欧州の天地は複雑怪奇」と言ってやめてしまった。
〇第二次世界大戦
1939年9月1日、ドイツ軍によるポーランド侵攻が始まった。続いて9月17日ソビエト連邦によるポーランドの侵攻が開始された。そしてイギリス、フランスによるドイツへの宣戦布告により、ヨーロッパは戦場と化した。
● 日独伊三国同盟
1940年9月27日にベルリンで調印された日本、ドイツ、イタリアの軍需同盟である。ドイツ側の狙いは、アメリカ参戦を防ぐことにあった。
すでに日中戦争で莫大な戦費を費やしていた日本は、中国を支援するアメリカと鋭く対立していた。陸軍では「バスに乗り遅れるな」という声が高まり、勢いに任せてオランダ領インドネシアやマレー半島を確保しようとする「南進論」の動きが高まった。
〇日ソ中立条約
時の外相・松岡洋右は3月に訪欧の途にいた。ベルリンでヒトラーと会い歓待されたが、ソ連の攻撃に参加する言質は取られなかった。帰途モスクワに立ち寄り、スターリンからここでも大歓迎され、日ソ中立条約を結んでいた。時は1941年4月13日で、東南アジアに出てゆく準備ができたと思った。
〇独ソ戦開戦
1941年6月22日、ドイツは不可侵条約を破棄して独ソ戦を始めてしまった。ヒトラーにとってスターリンは、いずれ戦うことになる許せない相手であった。
日本は日独伊ソの四国同盟を継続したかったが、裏目に出て東南アジアに出てゆくことになった。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 日独伊三国同盟 |
80 |
20 |
40 |
32 |
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7 |
1 |
▲筆者のコメント
①近衛文麿は東亜の新秩序建設と謳いあげたが、日中戦争にはめどが立たず、日米交渉、日独同盟交渉など難問に嫌気がして、1939年早々に内閣を放り出してしまった。
➁日独伊三国同盟に海軍は反対であった。昭和天皇は「今しばらく独ソの関係を見極めたうえで締結しても遅くないのではないか」と危惧を表明したが、近衛首相は「ドイツを信頼いたしてしかるべし」と奉答した。無責任だ。
③松岡洋右外相が強引であった。三国同盟に前のめりで、国民を大変危険な領域に連れて行ってしまった。ドイツを信頼するなら、ドイツがソ連と開戦した時、日本は南進でなく北進を選ぶべきで、そうすれば勝組に入れたに違いない。
ミヤマカケス 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任㉘ 南部仏印進駐 [戦争責任]
○米内光正内閣(1940年1月~7月)
「欧州の天地は複雑怪奇」と言ってやめた平沼麒一郎、陸軍に推された陸軍大臣の阿部信行に続いて、海軍軍人の米内光正が総理大臣に就任した。米内は親米派で、ドイツの威勢がいい中でも日独同盟に反対したため、陸軍との関係が悪化した。
陸軍は、時の陸軍大臣をやめさせて、後継大臣を推薦しなかったため、米内内閣は総辞職を余儀なくされた。「軍部大臣現役武官制」の発動で軍部は政治を操るようになった。
〇第2、3次近衛文麿内閣(1940年7月~1941年10月)
米内光正内閣の後を受けて、第二次近衛文麿内閣が成立し、閣議で「基本国策要領」が決定された。ドイツ・イタリアの「ヨーロッパ新秩序」に呼応して、「東亜新秩序」の建設を策し「大東亜共栄圏」の建設を喧伝した。
さらに、1940年9月に、外相松岡洋右の主張に沿って日独伊三国同盟を締結した。これはアメリカを仮想敵とするもので、アメリカは硬化し輸出品の制限と中国の支援を強化した。
日本は1941年4月にソ連と日ソ中立条約を結んだが、おり悪く独ソの関係が悪化してしまった。国内ではすべての政党が解党し、大政翼賛会結成され、翼賛政治といわれるファシズム体制が成立した。
〇北部仏印進駐
1940年9月23日、日本軍はフランス領インドシナ進駐を実行し、ベトナムのハノイに進駐した。フランスのビシー政府はすでに本国をドイツ軍に占領されており、抵抗できなかった。
アメリカはすでに日米通商航海条約の破棄を通告していたが、さらに鉄くずなどの資源の対日輸出をストップした。
●南部仏印進駐
1941年7月28、日日本軍はフランス領インドシナ南部に進駐し、さらにカンボジア・ラオス全域に展開した。これに対抗してアメリカは、対日石油輸出を全面的に禁止した。
日本側はそれをいわゆるABCDラインによる包囲網と宣伝した。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 南部仏印進駐 |
100 |
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60 |
60 |
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▲筆者のコメント
①南部仏印進駐で、日米間に越えがたい壁ができてしまった。あとは坂道を転げ落ちるだけである。
➁戦争責任評価点から見ると、南部仏印進駐が、日本側責任の最大と評価されても仕方がないと思う。ただし、軍部大臣現役武官制、近衛文麿の無責任政治、北部仏印進駐も評価に含まれる。
③近衛文麿は、共産主義者の風早章や尾崎秀実を重用したという。日本を敗戦に導いて共産主義化を目論んだという説もある。もっとも、共産主義化は、当時は世界的に流行していて、米大統領F・ルーズベルトも共産党のシンパでソ連に何かと肩入れしたといわれている。
ツメナガセキレイ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任㉙ ハルノート [戦争責任]
〇アメリカの友好国支援
1940年11月30日、ルーズベルト大統領は中国に5千万ドル借款供与した。そして12月29日の炉辺談話で、国民に向かって民主主義諸国の兵器庫となると宣言した。
〇日米交渉の経緯(1941年)
① 野村大使と米国要人の間で、日米了解案が4月9日にまとまった。ハル国務長官は、草案を見るとぽいと机の上に投げ、あまり関心を示さなかった。
➁アメリカは、7月8日、日本の外交暗号の解読に成功した。日本のドイツ大使館あてに打たれた電報が解読され御前会議で決定された南部仏印進駐の国策が知られてしまった。
結果、8月1日石油全面輸出禁止となった。
③11月5日御前会議で帝国国策遂行要領が天皇の裁可を得た。譲歩的提案甲案(中国と和平成立後25年後撤兵)、最終譲歩提案乙案からなっており、11月25日までに不成立なら12月初頭武力発動と決まった。
④11月7日、野村大使は暗号が解読されている、とも知らず、ハルに甲案を手交したが相手にされなかった。しかも交渉期限も暗号解読で知られていた。
●ハルノート
1941年11月26日、にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。採るべき措置として10項目提示されているが、主な項目は下記で、日本側の要望はことごとく無視されたものであった。
① 日本の支那、仏印からの全面撤退
➁日米は蒋介石政権以外認めない(日本の傀儡・汪兆銘政権は認めない)
③日独伊三国同盟の実質廃棄
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
||||||||
日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● ハルノート |
20 |
80 |
60 |
12 |
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48 |
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▲筆者のコメント
①松岡外相は日米了解案が訪欧の留守中に作られたことが気に入らず、高姿勢の対案を強引に決めた。そして新たに日米中立条約を提議した。(日ソ中立条約をまとめて得意になっていた)
➁ハルノートは日本に対する最後通牒であり、宣戦布告である。軍の一部の主戦論者を除いて、落胆の様子がありありと見えたという
③太平洋戦争はルーズベルト大統領という狂人が望んで始めたもの、というフーバー大統領の証言がある。
③ハルノートが出された、1941年11月26日早朝には、日本の機動部隊は真珠湾を目指して南千島から出撃していった。
キセキレイ 撮影:鳥好閑人さん
戦争責任㉚ 真珠湾攻撃 [戦争責任]
○1941年ころの日本の世情
① 1940年11月10日、紀元二千六百年を祝う提灯行列、旗行列が全国であった。
➁1940年12月1日、大政翼賛会本部を設置した。
永井荷風は日記に「今の日本は石が浮かんで木の葉がしずむ」といった。世情は荒々しくなっていくばかりであった。
○1941年ころの日本の政治状況
①1940年7月22日、第二次近衛文麿内閣が成立、松岡洋右が外務大臣に就任した。
➁1941年7月28日、第三次近衛内閣成立、松岡外相を閣外に追い出すための内閣改造であった。近衛はルーズベルト大統領と頂上会談を期待したが果たせず、日米交渉に進展はなかった。
③1941年9月6日、御前会議で帝国国策遂行要領が議題となり、10月上旬までに日米交渉がまとまらなければ、戦争決意することを確認した。
④10月9日、伏見宮博恭王が天皇に謁見し、「米国とは一戦を避けがたく戦うとすれば早いほど有利、人民みな開戦を希望している。開戦しなければ陸軍に反乱がおこる。」と述べた。
⑤10月16日、近衛内閣は総辞職した。戦争決意の期限が来ても日米交渉は進展せず、和を主張すべきところ責任を放棄した。後任に陸軍大臣東条英機が就任した。
○陸軍・海軍の軍事状況
①陸軍はシンガポール攻略、海軍は東南アジアの資源地帯を占領し、対米長期戦に備えると主張、 これと異なる考え方を持った山本五十六連合艦隊司令長官はハワイの米主力艦隊への先制攻撃を主張してみつどもえとなったが、周囲の反対を押し切って真珠湾攻撃が、長野修身軍令部総長の決済で正式作戦となった。
➁当時、陸軍兵力212万、海軍兵力395隻(米太平洋艦隊と互角)、陸海軍航空機5700機
③ 11月15日、大本営政府連絡会議は戦争終結目途を、・石油資源確保、・重慶の蒋介石屈服、・独ソ戦がドイツ勝利、・ドイツのイギリス本土上陸の四条件と決めた。すなわち日本は、ドイツの勝利を当てにして勝利の夢を見ていた。
○独ソの戦況
10月14日、カリーニンがドイツ戦車隊に突破されたが、10月16日モスクワに数インチの降雪があり、冬将軍が到来した。12月5日、米から軍需物資の援助を得てソ連軍が大反撃を開始し、ドイツ軍は敗色濃厚となった。
ドイツ軍の撤退が、真珠湾攻撃の日と近いのは歴史の皮肉である。日本が早く知っていれば違った世界が見られたであろう。
●真珠湾攻撃
1941年12月8日、ハワイの真珠湾にある海軍基地を、日本海軍の空母6隻を主力とする機動部隊が攻撃した。日本時間12月8日、午前1時30分、第一波攻撃隊として183機、午前2時45分に第二波攻撃隊として171機が発進した。約2時間後攻撃が開始され成功したが、味方の損害を最小限に防ぐために一撃のみで引き返すことにした。
日本側は空母6隻すべて健在であった。一方アメリカ側は戦艦4隻沈没、戦死2.345名であった。
〇宣戦布告の遅延
外交官の不手際輪があって、宣戦布告が遅れてしまった。アメリカは布告をわかっていたが、布告前の攻撃と嫌みだけ言った。アメリカの世論は布告前攻撃に対し、「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、一夜に好戦的になってしまった。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 真珠湾攻撃 |
100 |
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50 |
50 |
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▲筆者のコメント
①アジアを南進して西を攻める案があったが、山本五十六が真珠湾攻撃に非常にこだわり、すべてをだめにしてしまった。まさに最悪の将軍である。
➁ルーズベルト大統領は、日本の攻撃を事前に知っていて、空母を退避させ戦艦何隻かを囮にしたという説がある。米国民の厭戦気分を克服して一気に戦争に突入したかったようだ。
セグロセキレイ 撮影:鳥好閑人さん