戦争責任③ 台湾出兵 [戦争責任]
〇1873年(明治6年)、西郷隆盛らの征韓論
かたくなに開国を拒む朝鮮に対し、西郷隆盛を派遣して国交要求するという方針を内定。直後に、欧米から帰国した大久保利通らが「国内整備優先」を主張し、反対した結果、征韓論派の参議が一斉辞職(明治六年の政変)。しこりが残った。
●1874年(明治7年)台湾出兵(明治政府が行った初めての海外派兵)
1871年、台湾に漂着した宮古の島民が、原住民に殺害された報復として出兵した。そして、台湾を支配する清国に、賠償金を支払えと要求した。一方、清国は台湾人を支配が及ばない野蛮人と主張し、賠償を拒否した。
大久保利通は、幕府内の反対を押し切って、陸軍中将・西郷従道を指揮官に任命し、台湾南部に上陸し制圧したが、戦死者12名、マラリアの病死者561名を出した。
大久保利通は、のち、清国に乗り込んで交渉した。イギリス公使の斡旋もあって、清国は台湾出兵を「義挙」と認め、賠償金に当たる見舞金を支払った。
出兵の目的は、あいまいだった国境線の画定、琉球王国を日本の領土として認めさせるきっかけにすること、征韓論に敗れた武士たちの不満の解消であった。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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●台湾出兵 |
50 |
50 |
2 |
1 |
1 |
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▲筆者の意見
①欧米から帰国した大久保利通らが、西郷隆盛らの征韓論に反対する理由を「国内整備優先」と主張しながら、台湾出兵に打って出たのは、不満分子の目を外に向けるため。
②台湾出兵は帝国主義への一歩とみることができる。台湾出兵を取り仕切った、大久保利通は、これで、明治新政府の第一人者として認められた。
オオグンカンドリ 撮影:鳥好閑人さん
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