戦争責任⑤ 壬午事変 [戦争責任]
〇1880年(明治13年)、山県上奏文
1874年(明治7年)の「台湾出兵」のあと、清国は、日本を意識して陸海軍の軍拡に努めていた。大小軍艦60余隻を保有し、なお増強中であったが、日本はそれに気づくのが数年遅れた。
1880年になって、参謀本部長・山県有朋が、中国の脅威と自国の富国強兵への転換を天皇に上奏した。
●1882年(明治15年)7月、壬午事変(朝鮮の反日派クーデター)
このころ、朝鮮では国王の父親・大院君と、王妃・閔妃の派閥に分かれて抗争していた。政権を担っていた閔妃は、日本に倣った開化政策をとり、日本の軍事顧問の力を借りて軍隊の近代化などを進めていた。
汚職事件を契機に、親清派の大院君の支持を得て兵士が反乱を起こし、政府内から親日派を一掃しようとした。民衆もこれに呼応して日本公使館を包囲、投石した。日本の公使館員らは命からがら帰国したが、約10名が殺害された。
反乱を鎮圧したのは清国で、大院君を清国に連行し、閔氏政権を復活させた。事変は清国の仲介で、犯人の処罰、被害者への賠償、公使館の原状回復、軍隊の駐留承認など示談(済物浦条約)が成立した。
親日派であった閔妃一族は、事変後、親清派に寝返った。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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●壬午事変 |
20 |
80 |
5 |
2 |
0 |
3 |
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▲筆者のコメント
①朝鮮は日本と中国の代理戦争の場であった。事変の結果、中国の朝鮮政府に対する影響力が増大し、一方、日本国内では中国、朝鮮に対する反感が強まった。
②朝鮮に渡った日本人が、コメの流通を牛耳って、穀物価格の高騰を来すなどの問題行動もあった。
③1881年9月、福沢諭吉が、日本には欧米列強のアジア進出から中国と朝鮮を守る責任があると、「時事新報」に書いたが、中国の強国化を認識した一年後の1882年11月には、中国軽侮の風潮を戒め、軍拡の必要性を説いた。日本は帝国主義の時代に入ったと言える。
コオリガモ 撮影:鳥好閑人さん
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