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戦争責任⑥ 甲申事変 [戦争責任]

1883年(明治16年)朝鮮・独立党の結成

 混乱する李氏・朝鮮で、青年政治家、官僚などの開化派が、清朝からの独立をめざして「独立党」を結成した。中心人物は、金玉均、朴泳孝など。独立党は、清朝と結んでいる閔妃一族などの保守派の「事大党」と対立した。

〇清仏戦争(1884-1885年) フランスの保護領・安南(現ベトナム)がフランスに助けを求め、フランスと清朝が戦争になったが、清朝が負けて、天津条約により清朝は安南に対する宋主権を放棄した。

1884年(明治17年)、甲申事変 

 12月に、独立党の金玉均が中心になって、日本公使と手を組んでクーデターを起こし、日本軍を動かし王宮を占領し、事大党の閔妃ら要人を殺害した(乙未事変)。すぐに、閔妃側を応援する袁世凱が率いる清国軍が反撃、日本側はすぐに撤退したため3日で終息し、金玉均と朴泳孝らは日本に亡命した。これが甲申事変である。

1885年(明治18年)天津条約

 伊藤博文特命全権大使と、清国の李鴻章の会談で下記を取り決めた。すなわち、朝鮮から両軍撤兵、今後は軍事教官を派遣しない、出兵時は事前通告すること。

 出来事・事件

(太平洋戦争を敗戦に導いた事)

責任度 %

重要度%

責任評価点(責任度X重要度÷100

日本

相手

●甲申事変

40

60

5

3

0

2

 

 

 

 

 

▲筆者のコメント

①閔妃はもともと親日派で、親清派の大院君と対立していた。壬午事変を境に閔妃を反日、親清に追いやってしまったのは残念。

②独立党の金玉均らは、「清国は、清仏戦争に負けてベトナムを守れなかった。朝鮮は、日本についた方が良いのではないか」と考えたと思う。

③甲申事変は、福沢諭吉が「脱亜論」(脱亜入欧)を唱える契機になった。諭吉は、「悪友を親しむ者は、共に悪友を免かる可からず」といっている。清国と朝鮮の近代化をあきらめ、日本だけの西欧近代化を目指そうとしたと思う。(和魂洋才)

鳥35カラムクドリ.jpg

       カラムクドリ 撮影:鳥好閑人さん


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