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戦争責任⑦ 日清戦争 [戦争責任]

1889年(明治22年)山県有朋の主権戦、利益線
 山県有朋は、国防上自国の主権が及ぶ国土の範囲を「主権戦」、その国土の存亡に関わる隣国の状態を「利益線」と定義し、朝鮮半島の独立・中立は、まさに日本の利益線になると主張した。
 主権戦・利益線の概念は、訪欧の際オーストリアの大学教授から教えられたと言われている。


1894年(明治27年)4月、東学党の乱
 東学党とは、日本や西洋の学問を排斥する朝鮮人の運動体で、朝鮮政府に抵抗して反乱を起こした。朝鮮政府は、清国に出兵を要請した。この乱は、日清両軍の介入により短期間に鎮圧されたが、清国が天津条約に反して、出兵の事前通告をしなかったため、日本が抗議をし、両軍がにらみ合う形勢となった。


1894年(明治27年)8月、日清戦争
 清国が日本の抗議に対応しなかったため、日本は8月になって宣戦布告をした。戦闘は日本の圧勝で、北京攻略の直前に講和会議が始まり、18954月に「下田講和条約」が結ばれた。
 下田条約の成果は、①朝鮮半島の独立承認、②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、③賠償金2.5億両、④新規に杭州など4港開港


1894年(明治27年)日英通商航海条約締結
 この条約により領事裁判権などの不平等が改善され、1858年の日米修好通商条約以来の不平等条約が、ようやく解消された。



 出来事・事件

(太平洋戦争を敗戦に導いた事)

責任度 %

重要度%

責任評価点(責任度X重要度÷100

日本

相手

●日清戦争

40

60

20

8

8

4

 

 

 

 

 



▲筆者のコメント
①日本は、日清両国が協力して朝鮮の内政改革に当たろうと提案したが、清国は拒否した。
②清国は出兵理由を「属邦保護」のためとしたが、日本は、朝鮮は独立国で属邦ではないと主張した。
③日清戦争は、日本の自衛戦争で日本に責任はないという見方があるが、内乱を利用した内政干渉ともいえる。南下を狙うロシアに危機感を与えたと思う。
➃日清戦争に勝って、戦争は領土の割譲、賠償金の取得など、割の良いビジネスと見做す気分が国民にまで蔓延した。大敗北して痛い目に合うまで治りそうもない。



鳥36ツツドリ.jpg


       ツツドリ 撮影:鳥好閑人さん 



 


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