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戦争責任⑨ 北清事変 [戦争責任]

1899年(明治32年)義和団の乱
 日清戦争の敗北により、清国は西洋列強の草刈り場となっていた。特に揚子江周辺の英国と、満州進出のロシアなどが競い合っていた。
 清国では、西洋の排撃と清国の独立を掲げる義和団の暴動が本格化した。

1900年(明治33年)北清事変
 北京に乱入した約20万の義和団は、外国の外交官などを殺傷した。各国の外交官や居留民はバリケードを築き、55日に亘り抵抗し、救援を待った。
 清国政府は、義和団に同調し、各国に宣戦布告をした。日英米仏露独墺伊の8か国は連合軍を組織して民間人の救出に当たった。鎮圧に最も貢献したのは日本とロシアであった。事変後、北京議定書が結ばれて、日本は駐屯軍を常駐させた。

1900年(明治33年)第二次露清密約
 ロシアは、北清事変にかこつけて軍隊を増派し満州に居座った。清国は、第二次露清密約を結んで、満州全域をロシアの勢力圏と認めた。

 出来事・事件

(太平洋戦争を敗戦に導いた事)

責任度 %

重要度%

責任評価点(責任度X重要度÷100

日本

相手

  北清事変

0

100

10

0

6

 

 

4

 

 

 

 

▲筆者のコメント

①当時、日本は、「内に立憲」、「外に帝国」を説く言論が多かった。

②民本主義者・吉野作造は、朝鮮の植民地化や満州の半植民地化に反対の言論を展開した。だが、多くの批判者がおり、孤立無援で困難を極めたようだ。

③現在の米中覇権時代にも、中国、朝鮮に寄り添ってともにアジアの平和と繁栄を築こうとする論者は少ない。吉野作造の時代と何も変わらない。

鳥38アオバト.jpg

       アオバト 撮影:鳥好閑人さん


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