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戦争責任⑩ 日英同盟 [戦争責任]

1900年頃の東アジアの情勢
 19世紀は、英国の海洋覇権にロシアが不凍港を求めて挑戦していた。20世紀初頭には、両国対決の舞台は東アジアに移った。
 ロシアの南下を牽制しようとする英国は、日清戦争や北清事変で示した日本の実力を買って、日本を「極東の憲兵」と見做すようになった。
 日本にとっても、朝鮮半島の状況は日清戦争以前より悪化し、親露派が親日派を圧倒していた。国王・高宗は、一年間もロシア公使館に移り住んでいたほどである。

1902年(明治35年)日英同盟
 ロシアを仮想敵とする日本は、利害が一致する英国と1902年に日英同盟を締結した。ロシアはこれに対抗して、露仏同盟を結んだ。英国の意図は、日露一騎打ちなら、英仏は中立。英国介入なら仏国も参戦する意味である。

1904年(明治37年)英仏協商
 英仏は、ともに日露に介入しない協定を1904年に結んだ。日本は、日英でロシアを挟み撃ちにする夢は破れたが、英国の間接支援に希望をかけた。

 出来事・事件

(太平洋戦争を敗戦に導いた事)

責任度 %

重要度%

責任評価点(責任度X重要度÷100

日本

相手

●日英同盟

20

80

5

1

 

 

 

 

4

 

 

 

▲筆者のコメント

①海洋覇権を握り、孤高を好む英国を同盟国にできたのは、日本の大金星。

②戦艦三笠の購入や戦費調達など、日英同盟は十二分に役立った。

③英国はロシアの南下を防ぎ、アジアの植民地支配を継続するため、日本を利用した責任がある。日本は逆に、英国に利用された責任がある。

鳥51イスカ.png

 イスカ 撮影:鳥好閑人さん


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