戦争責任⑪ 日露戦争 [戦争責任]
〇1903年 満韓交換論、日露交渉
日本では、国力差を考えて満州をロシアの、朝鮮半島を日本の勢力圏とする、いわゆる満韓交換論さえ唱えられていた。だが、小国日本の思惑を、大国ロシアは一蹴し朝鮮への野心も捨てなかった。
最後の手段として朝鮮半島の39度線で勢力を分割しようと交渉したが、ロシアに無視された。
●1904年(明治37年)日露戦争
日本は、交渉の不調を受けて、ついに御前会議で開戦を決定、2月10日に宣戦布告をした。陸戦では、鴨緑江会戦などの緒戦で勝利し、旅順要塞の激戦を制して、ついに奉天会戦でロシア軍を敗走させた。その3月10日は陸軍記念日とされた。
海戦では、黄海海戦と日本海海戦に完勝した。これでロシア皇帝は戦意を失った。5月27日は海軍記念日になった。
〇1905年 ポーツマス条約
日本は、好意的な中立国であるアメリカのルーズベルト大統領に、講和のあっせんを依頼した。ポーツマス条約の概要は下記。
①日本の韓国における優越権を認める②日露両国の軍隊は、満州から撤退する③南樺太を割譲する➃南満州鉄道と炭鉱の租借権を譲渡する⑤沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える
〇1905年 日比谷焼き討ち事件
9月5日、戦争に勝ったにもかかわらず、賠償金が得られなかったとして、ポーツマス条約反対集会が開かれた。約10万の群衆が暴徒と化し、日比谷周辺の内務大臣官邸、新聞社、交番などが焼き討ちされた。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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●日露戦争 |
20 |
80 |
20 |
4 |
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4 |
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12 |
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▲筆者のコメント
①原敬の日記によると、国民も政治家も日露戦争を求めていなかった。だだ、声に出して反対を主張するものはなかった。何やら太平洋戦争の時と同じに見える。
②日清戦争に勝って「帝国」の膨張を目指し軍拡に励んだ陸海軍は、相手の譲歩を過大に期待して、勢いで戦争に突入したようだ。
③実戦と並行して、明石元次郎大佐がロシアに潜入し、内部攪乱を図った結果、ロシアは戦意を失ったとされている。今の日本は、諜報戦、情報戦の技術も意識も失ってしまっている。
コヨシキリ 撮影:鳥好閑人さん
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