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戦争責任⑫ 四国協商 [戦争責任]

1882年 三国同盟(独襖伊)
 ドイツが、フランスを仮想敵として、1882年にドイツ、オーストリア、イタリアの三国間で結んだ同盟である。その後、ドイツは、モロッコ問題で英仏を敵に回し、英国に建艦競争を挑んだ。また、オーストリアは、ロシアとバルカン半島問題で対立した。この同盟は、のちに第一次世界大戦の一方の当事者となった。

1907年 三国協商(英露仏)
 フランスはドイツ宰相・ビスマルクと対立し、ロシアと手を結んで1894年に露仏同盟を締結した。英国も三国同盟に対抗して、フランスに接近し1904年に英仏協商を、ロシアに接近して1907年に英露協商を結んだ。これでドイツ包囲網が完成した。

1907年、日仏協約 
 日本はフランスと植民地支配の相互承認をめぐって日仏協約を結んだ。日本の台湾、南満州の支配と韓国の権益を、フランスのインドシナ支配を認める内容である。

1907年、日露協約
 日露戦争後、条約とは別に、清国から得た満州の権益をめぐって日露協約を結んだ。日本は南満州を、ロシアは北満州を勢力範囲とする内容である。1917年のロシア革命で消滅するまでに4度にわたって改定された。

1907年 四国協商 
 日本は三国協商の当事国と上記のように協約を結び、1902年の日英同盟と相まって、ドイツ包囲網の一角の地位を得た。

〇第一次世界大戦前のバルカン半島情勢
 19世紀までオスマン帝国(現トルコ)が支配していたバルカン半島は多民族国家で、国力の低下に伴って、民族独立を求める戦争が頻発した。ドイツ、オーストリア、ロシア、イタリアなどが介入してヨーロッパの火薬庫といわれていた。

 

 出来事・事件

(太平洋戦争を敗戦に導いた事)

責任度 %

重要度%

責任評価点(責任度X重要度÷100

日本

相手

1907年 四国協商

20

80

5

1

 

 

 

1

1

1

1

 

▲筆者のコメント

①日露の対立が決着した後、世界の注目は欧州に集まり、三国同盟と三国協商の対立が鮮明になった。

1907年は「協商の年」として世界史に記憶されている。日本は英露仏襖伊米の7か国と大使を交換し、大国の仲間入りを果たした。

③日本はドイツ包囲網の一角を占めたが、地政学的に優位な位置にあり、生存戦略をめぐらせるチャンスあったが十分活かせたとは言えない。

 鳥52リュウキュウコノハズク.png

    アオバズク 撮影:鳥好閑人さん


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