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戦争責任⑳ 済南事件 [戦争責任]

1920年代の中国の状況
 1920年代の中国は、中華民国(北軍)、中国国民党(南軍)、共産党軍が三つ巴の抗争を繰り返していて、下記のように治安が悪かった。


1912年~、中華民国(北洋閥)
 1911年、辛亥革命で革命軍に協力した袁世凱が、中華民国の臨時大統領に就任した。北京周辺から北の奉天までを支配地域としたので、北洋閥ともいわれる。群雄割拠の時期を経て1924年に張作霖が実権を握った。1928年に張作霖は日本軍に爆殺され、張学良に引き継がれた。


1921年~、中国共産党結成
1921
年、上海でコミンテルンの中国支部として中国共産党が結成された。1924年、ソ連の指示を受けて国民党と国共合作したが、1927年の上海事件で決裂、中国国民党・蒋介石の弾圧をうける。党員58人から始まった共産党は、策謀の限りを尽くし、1949年に中華人民共和国を建国し現在に至る。


1921年~、中国国民党
 1921年、孫文が、広東政府を立ち上げ、大総統に就任した。1924年、ソ連の支援を受けた中国共産党と連携し勢力を拡大した。孫文の死後、引き継いだ蒋介石が、1926年に北京政府撲滅を目指して北伐宣言を発表した。


北伐軍は1927年に南京、上海を占領した。南京では外国領事館や居留地で暴行凌辱を行った(南京事件)。上海では戒厳令を布告し、共産主義者を粛清した(上海クーデター)。そして中国国民党は、ソ連、中国共産党と断交した。


 1928年、蒋介石が率いる国民政府は国民革命軍を組織し、北伐を再開した。山東省で日本軍と衝突して、下記の済南事件を起こした後、北京で張作霖を敗走させ、国民政府による全国統一を宣言した。


19285月、済南事件
 日本は、青島―済南間の膠済鉄道を借りていて、沿線の鉱山は日中合弁会社が経営していた。山東省における日本人居留民は約1.7万人で、ほかにも多くの外国人が居住していた。


済南事件は、中国山東省の済南で、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件である。日本は、権益と居留民保護のため3千人程度の日本軍を派遣し、10倍の国民革命軍と武力衝突し、済南を占領した。
 衝突の原因は、潜入した共産党員や軍閥の謀略説など諸説ある。


 出来事・事件

(太平洋戦争を敗戦に導いた事)

責任度 %

重要度%

責任評価点(責任度X重要度÷100

日本

相手

  済南事件

40

60

20

8

12

 

 

 

 

 

 


 


▲筆者のコメント
①国民政府の蒋介石は、国際社会に向かって日本を非難する巧妙な宣伝をしたが、国際社会の評価はさまざまであった。


1920年代の混乱する中国に、日本は深入りし弱みに付け込んだことで、のちの満州事変につながってしまった。中国に距離を置く戦略が欲しかった。


 鳥66オオソリハシシギ.png


     オオソリハシシギ 撮影:鳥好閑人さん


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