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戦争責任㉒ 満州事変 [戦争責任]

戦争責任㉒ 満州事変

1930年前後の日中の状況

北京から満州にかけて支配していた軍閥の張作霖は、北に攻めあがる蒋介石に敗れて、北京から脱出し、満州に逃げ帰った。力を失い撤退する張作霖は、1928年に日本軍によって爆殺された。

首謀者は関東軍参謀・河本大作大佐で、軽い停職処分で済まされた。昭和天皇は時の首相・田中儀一を叱責し、田中内閣は総辞職に追い込まれた。

 張作霖の跡を継いだ息子の張学良は強い恨みを持ち、なんと敵の蒋介石と組んで、日本と決別した。

〇満州事変の立案者:石原莞爾

 石原莞爾は192810月、関東軍の参謀となり、満州事変を立案・実行した中心人物である。彼は、東洋の代表の日本が、西洋の代表のアメリカと最終戦争を行うと予言し、勝つためには満州が必要だと考えた。

1931年、満州事変

 1931918日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路の一部が爆破された。これは関東軍による謀略であった。関東軍は満州各地を占領し、19322月、満州全土を制圧した。

 張学良は南に逃げて、蒋介石の配下となり、毛沢東との協力を拒む蒋介石を説得して、抗日民族統一戦線を作った。

 当時の若槻礼次郎内閣は、不拡大方針を取ったが、関東軍は制止を振り切って宣戦を拡大した。制御不能になった若槻内閣は総辞職をした。跡を継いだ首相・犬養毅は暴走を止めようとしたが、軍部の反発を買い、後の五・一五事件につながった。新聞は一斉に満州事変を擁護する記事を書いた。

 

 出来事・事件

(太平洋戦争を敗戦に導いた事)

責任度 %

重要度%

責任評価点(責任度X重要度÷100

日本

相手

  満州事変

80

20

50

40

7

 

 

3

 

 

 

▲筆者のコメント

①石原莞爾の最終戦争論は、世界の覇権国の歴史を想起させる。日米が覇権を獲得すると想定し、最後は日本が勝って世界を支配したいと考えた。なにやら習近平の思考に似ている。

②「満蒙は日本の生命線」をスローガンに、満州事変を戦ったが、日本は国際的に孤立し、ますます軍部独裁が強まった。

③蒋介石、毛沢東、張学良の三者を結束させ、「抗日民族統一戦線」を作らせたのは、日本の大失敗。

 鳥52リュウキュウコノハズク.png

        アオバズク 撮影:鳥好閑人さん


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