戦争責任24 国際連盟脱退 [戦争責任]
〇1932年6月、斎藤実内閣組閣
斎藤実海軍大将が首相に、高橋是清が蔵相に留任、内田康哉が外相に指名されが、実態は弱体連立内閣であった。斎藤首相は犬養が避けた満州国承認を行い、内田外相は議会で、国は焼けても満州の利権は守るとする「焦土演説」で世論を煽った。
〇1932年2月~9月、国際連盟リットン調査団
満州事変の戦争責任を調査するために、国際連盟はリットン調査団を派遣した。報告書は、中華民国の顔を立てつつ、日本の主張をすべて認める内容であった。蒋介石は苦渋の受諾をした。
●1933年3月、国際連盟脱退
関東軍は、満州国執政・溥儀に同調して熱河作戦を発動し、さらに領土拡張のための軍事行動を拡大した。日本政府はこれを容認し、日本に同情的であった英国を離反させた。
1933年3月、国際連盟において満州国不承認は42対1で可決されてしまった。日本は直ちに国際連盟脱退を表明した。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 国際連盟脱退 |
100 |
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30 |
30 |
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▲筆者のコメント
①犬養首相の後任選びの経緯には逸話がある。首相推挙の任に当たった西園寺公望が、上京途次、沼津駅で、陸軍皇道派の中心人物である秦真次憲兵司令官に、「今は国家非常のときですぞ。政党内閣で軍を指導できると思うか」とサーベルで脅しながら詰め寄られた。
②陸軍は後任に、対中強硬派で枢密院副議長の平沼麒一郎を推したが、天皇から「ファッショに近いものは絶対不可」のお言葉があって、結局、斎藤実元海軍大将に落ち着いた。
③国際連盟脱退に追い込まれたのは、日本がミスにミスを重ねた結果と思う。残っていればその後の運命が変わったかもしれない。
オオマシコ 撮影:鳥好閑人さん
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