戦争責任㉕ 二・二六事件 [戦争責任]
戦争責任㉕ 二・二六事件
〇1935年、天皇機関説事件
天皇機関説は、天皇を内閣や国会と同列の一機関として扱う考え方で、大正デモクラシーの時代に、美濃部達吉東京帝国大学教授らによって主唱された。
軍国主義の時代になると、天皇は憲法を超越する絶対的な権力を持つとする天皇主権説が主流となり、1935年、美濃部達吉教授は、不敬罪に問われ、貴族院議員を辞めさせられた。
陸軍は天皇機関説にとどめを刺すため、国体明徴声明を発表し、天皇主権のダメ押しをした。
●1936年2月、二・二六事件
2月26日、皇道派の青年将校が約1500名の兵を引き連れ、高橋是清蔵相や、斎藤実内大臣ら重臣を暗殺し、岡田首相も一時行方不明になった。政府機能がマヒする中、昭和天皇の厳命により暴徒は鎮圧され投降した。
〇事件の事後処理
事件の首謀者である青年将校ら19名は、裁判の結果銃殺刑とされ、理論的指導者の北一輝は直接関与はしなかったが死刑となった。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 二・二六事件 |
100 |
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30 |
30 |
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▲筆者のコメント
①朝5時に事件が起きてすぐ、乳母からの電話で昭和天皇が知ることになった。襲われて重傷を負った鈴木貫太郎の妻は天皇の乳母をしたことがあり、宮内省の医者を派遣するよう電話したことで、事件の拡大を防ぐことができた。
②五・一五事件の被告が、比較的軽い刑罰で済んだこともあって、軍部は甘く考えていたが、昭和天皇の怒りに触れて今回は重罪に処された。
③陸軍と仲が悪い海軍が品川沖に戦艦を派遣し、陸軍の反乱部隊を牽制し、鎮圧した。その後も、ことごとに不仲であった日本の陸海軍が、総力戦に勝てるわけがない。
シマエナガ 撮影:鳥好閑人さん
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