戦争責任26 支那事変 [戦争責任]
〇西安事件
華北の張学良は関東軍に父を殺され怒っていた。張学良は日本に勝つためには、国民党と共産党の内戦をやめて国共合作の体制が必要だと考えた。1936年2月にたまたま蒋介石が西安に滞在しているとき、監禁して翻意を促し、抗日民族統一戦線を作った。
●支那事変
①盧溝橋事件
1937年7月7日、日本軍が北京郊外の盧溝橋で夜間演習中、中国兵から二度にわたり発砲された。日本軍も応戦し、死傷者は日本十数名、中国80名に上った。その後も小競り合いがあったが、11日に再発防止の合意ができた。
②通州事件 北支事変
1937年7月29日、北京郊外の通州で、日本の通州守備隊と居留民200人以上が、もともと親日的であった中国軍閥によって虐殺された事件。
③第二次上海事件
1937年8月6日上海駐在の大山勇夫海軍中将らが殺された。日本租界への攻撃に端を発した日本軍との軍事衝突のこと。本事変の勃発によって北支事変は支那事変へ拡大した。
④南京事件
日本軍は上海占領に続き南京の攻略に着手した。1937年12月13日に占領したが、その際多くの捕虜と、民間人が虐殺されるいわゆる南京事件が起こった。
以後日本はゲリラ戦を戦うようになる。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 支那事変 |
80 |
20 |
60 |
48 |
12 |
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▲筆者のコメント
①近衛文麿
1938年近衛文麿首相は「国民政府を相手とせず」と声明を出した。ドイツにたすけてもらるのだろうか。
②援蒋ルート
蒋介石総統のプロパガンダが巧妙で各国から援助が集まった。日中間ではもはや何も解決できない。
③事変と戦争
日本は支那事変の際、宣戦布告できなかった。米国の輸入を継続したいからである。
ホシガラス 撮影:鳥好閑人さん
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