戦争責任㉗ 日独伊三国同盟 [戦争責任]
〇ノモンハン事件
1939年5月からら6月迄の第一次は引き分け、7月から9月までの第二次の戦闘はぼろ負けでようやく停戦にこぎ着けた。日本は敗戦をひた隠しにしたため、総力戦の技術の改善ができず、将来に生かせなかった。
〇独ソ不可侵条約
1939年8月23日、独ソ不可侵条約が電撃的に締結された。ドイツにとってはポーランド侵攻の準備のためであろう。
それを見た日本の平沼麒一郎首相は「欧州の天地は複雑怪奇」と言ってやめてしまった。
〇第二次世界大戦
1939年9月1日、ドイツ軍によるポーランド侵攻が始まった。続いて9月17日ソビエト連邦によるポーランドの侵攻が開始された。そしてイギリス、フランスによるドイツへの宣戦布告により、ヨーロッパは戦場と化した。
● 日独伊三国同盟
1940年9月27日にベルリンで調印された日本、ドイツ、イタリアの軍需同盟である。ドイツ側の狙いは、アメリカ参戦を防ぐことにあった。
すでに日中戦争で莫大な戦費を費やしていた日本は、中国を支援するアメリカと鋭く対立していた。陸軍では「バスに乗り遅れるな」という声が高まり、勢いに任せてオランダ領インドネシアやマレー半島を確保しようとする「南進論」の動きが高まった。
〇日ソ中立条約
時の外相・松岡洋右は3月に訪欧の途にいた。ベルリンでヒトラーと会い歓待されたが、ソ連の攻撃に参加する言質は取られなかった。帰途モスクワに立ち寄り、スターリンからここでも大歓迎され、日ソ中立条約を結んでいた。時は1941年4月13日で、東南アジアに出てゆく準備ができたと思った。
〇独ソ戦開戦
1941年6月22日、ドイツは不可侵条約を破棄して独ソ戦を始めてしまった。ヒトラーにとってスターリンは、いずれ戦うことになる許せない相手であった。
日本は日独伊ソの四国同盟を継続したかったが、裏目に出て東南アジアに出てゆくことになった。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 日独伊三国同盟 |
80 |
20 |
40 |
32 |
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7 |
1 |
▲筆者のコメント
①近衛文麿は東亜の新秩序建設と謳いあげたが、日中戦争にはめどが立たず、日米交渉、日独同盟交渉など難問に嫌気がして、1939年早々に内閣を放り出してしまった。
➁日独伊三国同盟に海軍は反対であった。昭和天皇は「今しばらく独ソの関係を見極めたうえで締結しても遅くないのではないか」と危惧を表明したが、近衛首相は「ドイツを信頼いたしてしかるべし」と奉答した。無責任だ。
③松岡洋右外相が強引であった。三国同盟に前のめりで、国民を大変危険な領域に連れて行ってしまった。ドイツを信頼するなら、ドイツがソ連と開戦した時、日本は南進でなく北進を選ぶべきで、そうすれば勝組に入れたに違いない。
ミヤマカケス 撮影:鳥好閑人さん
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