戦争責任㉘ 南部仏印進駐 [戦争責任]
○米内光正内閣(1940年1月~7月)
「欧州の天地は複雑怪奇」と言ってやめた平沼麒一郎、陸軍に推された陸軍大臣の阿部信行に続いて、海軍軍人の米内光正が総理大臣に就任した。米内は親米派で、ドイツの威勢がいい中でも日独同盟に反対したため、陸軍との関係が悪化した。
陸軍は、時の陸軍大臣をやめさせて、後継大臣を推薦しなかったため、米内内閣は総辞職を余儀なくされた。「軍部大臣現役武官制」の発動で軍部は政治を操るようになった。
〇第2、3次近衛文麿内閣(1940年7月~1941年10月)
米内光正内閣の後を受けて、第二次近衛文麿内閣が成立し、閣議で「基本国策要領」が決定された。ドイツ・イタリアの「ヨーロッパ新秩序」に呼応して、「東亜新秩序」の建設を策し「大東亜共栄圏」の建設を喧伝した。
さらに、1940年9月に、外相松岡洋右の主張に沿って日独伊三国同盟を締結した。これはアメリカを仮想敵とするもので、アメリカは硬化し輸出品の制限と中国の支援を強化した。
日本は1941年4月にソ連と日ソ中立条約を結んだが、おり悪く独ソの関係が悪化してしまった。国内ではすべての政党が解党し、大政翼賛会結成され、翼賛政治といわれるファシズム体制が成立した。
〇北部仏印進駐
1940年9月23日、日本軍はフランス領インドシナ進駐を実行し、ベトナムのハノイに進駐した。フランスのビシー政府はすでに本国をドイツ軍に占領されており、抵抗できなかった。
アメリカはすでに日米通商航海条約の破棄を通告していたが、さらに鉄くずなどの資源の対日輸出をストップした。
●南部仏印進駐
1941年7月28、日日本軍はフランス領インドシナ南部に進駐し、さらにカンボジア・ラオス全域に展開した。これに対抗してアメリカは、対日石油輸出を全面的に禁止した。
日本側はそれをいわゆるABCDラインによる包囲網と宣伝した。
出来事・事件 (太平洋戦争を敗戦に導いた事) |
責任度 % |
重要度% |
責任評価点(責任度X重要度÷100) |
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日本 |
相手 |
日 |
中 |
鮮 |
米 |
露 |
英 |
独 |
他 |
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● 南部仏印進駐 |
100 |
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60 |
60 |
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▲筆者のコメント
①南部仏印進駐で、日米間に越えがたい壁ができてしまった。あとは坂道を転げ落ちるだけである。
➁戦争責任評価点から見ると、南部仏印進駐が、日本側責任の最大と評価されても仕方がないと思う。ただし、軍部大臣現役武官制、近衛文麿の無責任政治、北部仏印進駐も評価に含まれる。
③近衛文麿は、共産主義者の風早章や尾崎秀実を重用したという。日本を敗戦に導いて共産主義化を目論んだという説もある。もっとも、共産主義化は、当時は世界的に流行していて、米大統領F・ルーズベルトも共産党のシンパでソ連に何かと肩入れしたといわれている。
ツメナガセキレイ 撮影:鳥好閑人さん
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