21世紀、日本の針路 ④経済成長期の「国のかたち」 [平和外交]
講和条約締結後、経済成長至上主義に舵を切った日本ではあったが、アメリカは、日米安全保障条約の名のもとに、軍産複合体が支配する体制を取り、陰に陽に、日本の支配をつづけた。
経済成長期の「国のかたち」は、簡単に表わすと下図の通りになると思う。この図は、3回前の当ブログに掲載した図の一部である。
経済成長期の主要な出来事の歴史的な意味を考えてみよう。
戦後 1945~2018 |
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国体 (米国) |
→ |
米・軍産複合体(注) |
→ |
政権 |
← |
国民 |
(注)ジャパンハンドラーともいわれ、日本の官僚を従えて、日本を支配している。
← :矢印の向きは国民主権の意味だが、権力の乱用もあって、十分ではなかった。
1.サンフランシスコ講和条約
1951年9月8日に、第2次世界大戦終結のため、講和条約が日本と連合国48ヶ国との間に結ばれた。日本が東京裁判で、「満州は共産主義とソ連を押し止める砦」とする主張が理解され、講和条約交渉が一気に進んだ。
冷戦がすでに始まっていたため、ソ連は講和条約に調印していない。日本の左翼は、スターリンの意をくんで、ソ連を含む全面講和論を主張し、条約締結に反対した。
アメリカをはじめ、交戦国すべてが日本からの賠償を放棄した。支那(中華民国)も1年後にしぶしぶだったが賠償を放棄した。日本が賠償したのは、戦場になり多大な迷惑をかけたフィリピンやインドネシアなどのみであった。講和条約締結の際、アメリカ側が課した条件は、日米安全保障条約の同時締結と、もう一つは東京裁判の判決の遵守であった。
1951年9月8日に、サンフランシスコ講和条約と同時に、日本とアメリカの間に安全保障条約が結ばれた。アメリカが、相手国に軍事保護を与えることを約した史上唯一の条約である。
この安保条約は、吉田茂首相が発案した形をとっており、日本がお願いして、日本とその周辺にアメリカ軍の駐留を認めるという体裁をとっており、期限も決められていない。
実は、条約締結前の1951年1月に、ダレス米講和特使が来日し、朝鮮戦争を念頭に、吉田首相に日本の再軍備を要求している。マッカーサーも極東の安全保障に日本はもっと寄与すべきだという考えを示していたという。
ところが、吉田首相は、軍事的・外交的にアメリカに従属するという占領期と変わらない「国のかたち」を選び、日本が真に独立国として再出発する好機を逃した。
安保条約は、1960年、70年と、改定のたびに大規模な反対運動がおこったが、大転換は起こらなかった。
3.経済面でのアメリカの支配
日本は、軍事を捨てて経済に専念した結果、高度経済成長(1955~72)、安定成長(1973~86)バブル景気(1986/12月~91/2月)バブル崩壊(1991/3月~93/10月)を経験した。
この間、アメリカは、国際収支と財政の赤字(双子の赤字)に苦しんでいた。1985年9月、先進5か国に対し、貿易不均衡是正のため、割高な為替レートの是正を迫った。ドル円レートは、当時の1ドル235円が、1年少々で120円まで下落し、日本は、いわゆる円高不況に見舞われた。
中曽根首相の時(1986年頃)も、経済構造協議と称して、日本はアメリカの要求をのまされてきた。アメリカ従属の痕跡は、枚挙にいとまがない。
4.まとめ(筆者のコメント)
①1950年に朝鮮戦争が勃発した。日本の共産化を防ぐ意味で、有利な講和が結ばれてよかった。
②吉田首相がアメリカ従属の道を選んだのは、戦争を憎み、憲法九条の平和を渇望する国民の意をくんだものと思われる。
③経済成長期にも、米・軍産複合体の支配は続いたが、そろそろ年貢の納め時である。
その時代、時代でそうせざるを得なかった事はわかります
しかし、そろそろ独立しませんか!
基地も縮小、撤廃にシフトしていかなければ・・・
by majyo (2018-07-05 19:06)